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健全なオカルティズム

kitasendo
オカルティズム 

小林秀雄の『本居宣長』初版本が出版されたしばらく後、ある雑誌社から初版本とその書評依頼が渡部昇一(当時、上智大学教授かな)に届いた。すでに世に出た数々の書評の写しも添へられてゐた。昭和52年(1977)のことです。

小林に対してはかねてより尊敬の念を抱いてゐたので、渡部は依頼を引き受けて通読した。難解な箇所も多いが、うーんと唸るほど感動する箇所もある。

ところが添付の書評に目を通して見ると、「全部ピンボケ、頓珍漢」と渡部には思へた。

小林は宣長を論じて、隋所に「精神主義」といふ言葉を用ゐてゐる。その言葉が評者たちを誤解させたのではないかと渡部は考へた。

本当は「精神主義」ではなく「オカルティズム」と言つてゐれば、もう少し誤解なく伝はつたはずだ。それが渡部の見立てでした。

宣長が30年以上取り組んだ『古事記』はオカルト文書、それを研究した宣長は完全なオカルティストになり、そしてその宣長を論じた小林もオカルティストだつた。

「オカルト」といふと、昨今では非常にイメージが悪い。しかし「オカルトは決してデタラメではない」と渡部は注意を促す。

例へば、「オカルト」と言つて最初に思ひ浮かぶスウェーデンボルグ。彼の霊界探訪記は非常に理路整然として精密であり筋が通つてゐる。彼は元々大学者で、レオナルドダヴィンチにも比肩する多才な天才でした。

哲学者であり神秘思想家としても知られるシュタイナーもさうですね。ゲーテの研究家としても有名です。

若い頃に家庭教師として教へた貴族の子が知能障害だつた。シュタイナーには、その子の魂の中で知能がもがいてゐる様が見えた。そのもがきを解いてやるとだんだんと正常になり、遂には医者になつた。

そのシュタイナーが教へる「オカルティストになる方法」といふものがあるさうです。その一つが「霊であれ何であれ、見えないものを考へ続けなさい。さうすれば見えてくるやうになる」といふもの。「超感覚」とでも言つたらいいでせうか。

この方法から考へると、『古事記』といふオカルト文書を33年間も見続けて、宣長は見えなかつたものが見えるやうになつた。それで書き上げたのが『古事記伝』。

その宣長と長い間付き合つてゐるうちに、小林にも見えなかつたものが見えてきた。それで書き上げたのが『本居宣長』。

さうすると、小林の『本居宣長』論は、オカルト文書に対するオカルト注釈である、と言つてもいい。だから小林の論は常人には難解な部分が多い。

そんなふうに考へると、小林には元々オカルティストの素質があつたのかも知れない。例へば、『信ずることと知ること』の中で、スプーン曲げで有名になつたユリ・ゲラーに触れて、こんなふうに書いてゐます。

今度のユリ・ゲラーの実験にしても、これを扱ふ新聞や雑誌を見てゐますと、事実を事実として受け取る素直な心が、何と少いか、そちらの方が、むしろ私を驚かす。…
今日の知識人達にとつて、己れの頭脳によつて、と言ふのは、現代の通念に従つてだが、理解出来ない声は、みんな調子が外れてゐるのです。その点で、彼等は根柢的な反省を欠いてゐる、と言つていいでせう。


「精神主義」と「オカルティズム」の違ひをどのやうに見たらいいのでせうか。

例へば、文鮮明先生のお話に
心と霊とは同じではない
といふ指摘があります。

大雑把に「心」を「精神」に置き換へれば、「精神と霊とは同じではない」といふことになる。

オカルトは精神を内包する。オカルトにあつて精神にないのは、「霊」の感覚である。さう見ると、「オカルティズム」には「精神主義」よりもづつと奥行きがあります。

小林の立場に立つて考へれば、今日の知識人たち(の多く)は、この世の現象を「己れの頭脳」(精神)によつて考へるので、精神の枠からこぼれるもの(霊・オカルト)は「調子が外れてゐて理解できないもの」として捨ててしまふ。あるいは、精神が理解できる方法で理解して済まさうとする。

かういふ見方をすれば、「オカルト」といふものは決して悪いものではなささうです。ただ、今では非常にイメージが悪い。なぜ悪いか。その理由は「霊」といふものを自分の「外」の存在と見るからではなからうか。さう見ると「悪霊」だとか「先祖の因縁」だとか「金縛り」だとか、おどろおどろしい世界に引つ張られるのです。

さうではなく、「霊」は自分の「中」にあると考へる。「霊」と言はず、自分の「霊性」に目を向ける。それを「オカルティズム」と呼べばいいと思ふ。

「霊性」は特別な人だけの超感覚でもなく、常人を驚かす超常現象でもない。再び小林の例を上げる。

小林が最愛の母を亡くして数日後、仏に上げるろうそくが切れたので買ひに行かうと外に出た。すると目の前を1匹の蛍が飛んでゐた。それを見た刹那、小林の意識に閃きが届いた。

おっかさんといふ蛍が飛んでゐる

これを「霊性」と私は呼びたい。そして、かういふ霊性は誰の中にもふつうにあるのです。その霊性で素直に見れば、『古事記』も『古事記伝』も『本居宣長』も、さして「調子はずれ」の書ではないと思はれます。

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