ノブレス・オブリジュ
民主主義とは、じつはすべての人にエリート教育をしなければ成り立たないと私は思っている。なぜかって、民主主義の定義により、誰が偉くなるか、あらかじめわからないからである。 (『希望とは自分が変わること』養老孟司) |
民主主義に限らず、どんな制度でもそれを運営するのは生きた人間ですから、結局は人間が良くならなければ制度はうまく機能しないでせう。絶対王制であらうと共和制であらうと、これなら絶対うまくいくといふものはない。しかしその中でも、民主主義こそ、それを構成する人々の質が最も厳しく問はれると思はれます。
養老先生は「良い民主主義のためにはエリート教育が必要だ」と言はれる。エリート教育をしても、構成員のすべてがエリートになるのは現実的に無理かもしれない。しかしある一定割合でエリートが存在しなければならないでせう。
エリートとは、どういふ人材でせうか。元はフランス語ですが、日本では「選良」などとも訳されてゐます。「選」は「選ばれる」。
頭が良くて成績優秀、一流大学を出て、一流企業に入社。出世して幹部になり、その会社を動かす地位に就く。経済人であれ学者であれ官僚であれ政治家であれ、その社会のトップに位置して、大きな影響力を行使する人たち。そんなイメージですね。
ところが今のアメリカを見てゐると、さういふ優秀な人たちが人数にして1%で国全体の富の50%を保有してゐる。優秀な人たちがその能力を駆使すればするほど、貧富の格差は拡大の一途をたどるのです。こんな人たちをエリートと言つていいのか。
エリートについて、養老先生はこんな例を示してゐます。
先生自身も東大医学部を出た医学者だつたが、母上も小児科の開業医だつた。医者と言へば、学歴から言つても職業から言つても「エリート」でせう。
しかしそのエリート開業医は、夜中でも休日でも構はず呼び出されて、年中往診に駆け回つてゐた。眠いから嫌だ、休みだから行かないとは言はないし、言へない。
養老先生は、さういふ人をエリートと呼びたいやうです。まさに「ノブレス・オブリジュ(高貴さは [義務を] 強制する)」。「休みだから行かない」とは「言はない」といふ精神性が重要なのだらうと思ひます。
日本では江戸時代「士農工商」といふ役割分担がありました。これは身分を上から下への順番で言つたものではなく、お金から遠い順に言つたものだといふ説があります。
武士は大小を差して一番威張つてゐるやうでありながら、実はお金から最も遠いところにゐた。「武士は食はねど高楊枝」などと言つて体面を重んじてゐるが、本当に食ふに困れば先祖伝来の刀でも売るしかない。
さういふ人間に社会的な支配権を与へておく。非常に巧みな社会制度であつたと思はれます。日本なりのエリート思想が生きてゐたと言つていい。
明治以降もしばらくの間、武士道精神は生きており、それなりのエリートもゐたと思ふ。しかし少なくとも、戦後になつてからはエリートを生み出す教育は施されなくなつた。
武田邦彦先生は自分の体験的実感から、
「日本のエリート(と見做される人たち)は1990年ごろから、どんどん嘘をつくやうになつたと思ふ」
と言つてゐます。
意識的なエリート教育がなければ、当然のことにも思へる。養老先生が言はれる通り、エリート教育がなければ民主主義は成り立たない。
目下の現状では、志のある個人が「休みだから行かない、とは言はない」といふ、目先の損得を無視する精神性を培ふしかないのかと思ふ。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
駿河路や花橘も茶の匂ひ 2023/01/11
-
黙つて一分間眺めて見るがいい 2020/07/09
-
明るい自閉症 2010/10/11
-
あんな素敵な60代の夫婦になりたい 2021/01/20
-
スポンサーサイト