自分を責めるのは、よくない
長老に伝へられた神の啓示の記事「神様からの伝言があります」の続きです。
「自分を責めるのは、よくない」
と神は言はれる。
「自分は足りないと言つて自分を責めることが真摯な信仰の証だとお前は思ひ込んでゐるやうだが、それは私の気持ちとはずれてゐる」
説教を聞いてゐた若い祝福二世の女性を通して、神がそのやうに説教者に伝へたといふ、稀有な体験です。
何がどうずれてゐるのか。
人の側は、
「私はあらゆる面で足りない。神の期待と私の実力との間には大きな乖離があるはずだ。それを許しながら神は私を用ゐておられるのだらう。申し訳ない」
と思つてゐる。
それに対して神は、
「私はお前のそこを見てゐない。私が見てゐるのは、お前が私の息子(娘)だといふことだけだ」
と言はれるのです。
人は、神が自分の力量を見ておられると思つてゐる。神には「み旨を成就する」といふ至高の目的があり、その目的に向けて私がどれくらゐ役立つかといふ観点から評価されてゐると思つてゐるのです。
み旨成就における「有用性」ですね。そこまで言ふのはちょつと極端かも知れない。しかしさういふ感覚が私にないとは、やはり言ひ切れない。
多くの先祖たちが連なる血統圏の代表として私が「召命」されたのではないか。取るに足りないとしても、私に何らかの取柄があつたからこそ、一族の中から選ばれたのではないか。
そんなふうに思ふから、選ばれたからにはそれにふさはしい役割を果たさなければならない。しかし歩めば歩むほど、自分の力の不足を痛感する。選んでくれた神様に申し訳ない。
しかし、神の見方はだいぶ違ふやうです。私を「本然(実)の子」だと思つてゐる。
子どもといふのは、選べないものです。優秀であらうが劣つてゐやうが、性格がどんなであつても、子どもが生まれてきたら、親はそれを子どもとして受け入れる他ない。
親には本来、子どもを選ぶといふ感覚もないし、子どもが具へてゐる能力によつてその価値を評価するといふ感覚もない。ただ「愛する」といふ感覚しかないのです。
しかし現実には、多くの親が実力や行動によつて子どもを評価することがあります。
子どもが親の言ふことを素直に聞けば、親は喜ぶ。子どもが頑張つて学校で良い成績を取れば、親は褒める。
ところが反対に、親の意向に沿はなければ、厳しく冷たく当たる。頑張っても成果が良くなければ、無視する。
そのやうに対され続ければ、子どもは思ふでせう。
「ぼくはその実力と行ひとで、お父さんお母さんから評価付けされてゐる。肯定的に評価される成果がなければ、ぼくには価値がない」
若い二世の女の子が
「神様の前に『私は足りない』といふのは、どこかおかしい」
と感じたのは、本然の感覚に近いのでせう。

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