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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

神様からの伝言があります

2021/01/16
信仰で生きる 1
霊界
神様からの伝言 

家庭連合の長老とでも言ふべき方の証です。ご本人の許可をいただいたので、名前を伏せながら、体験の意味を考へてみようと思ひます。

最近、所属の教会で礼拝の説教を担当した。今日の重要な神の摂理を担当するのに我々足りない者がどのやうな姿勢で歩むべきかを、涙ながらに訴へた。

説教を聞いた多くの人も心に響いて、涙を流した。説教者自身も、我ながら導かれた説教だと思つてゐた。

ところが説教が終はつて間もなく、一人の若い女性が近づいてきて、
「神様からの伝言があります」
と、思ひがけないことを言ふのです。

彼女が言ふには、説教中に神様から啓示を受けた。その内容を説教者に伝へてほしいと願はれたと言ふのです。

説教者としては緊張しますね。称賛だらうか、それとも批判だらうか。啓示はこんな内容だつた。

あなたの説教は、「不足な者」と言つて自分を責めてゐるやうであるが、それはあまり良くない。神はあなた(がた)を神の本然の息子(娘)として愛してゐるので、それをよく知つてほしい。


称賛ではないが、批判でもないやうです。諭しと言つたらいいでせうか。

若い女性は祝福二世です。彼女は説教を聞きながら啓示を受けて心が高ぶり、説教者に涙ながらにそれを伝へてきた。

長老の説教者はそれを聞いて、反省した。考へてみると、自分は長い信仰生活の中でづつと自分自身を責め続けてきたのではないか。「自分は罪人だ、自分は足りない」といふ自己認識を持ち続けてきたのではないか。そんなふうに思つた。とても素直な長老です。

この感じは私も分かる気がする。

「創造原理」では「人は神の似姿だ」と教へられるが、続く「堕落論」では「すべての人類は罪の子孫だ」と、ガーンと頭を思ひつきり叩かれる。そして実際、自分を見れば、堕落性はわんさかある、信仰は足りない、愛も乏しい。

だから摂理を背負はうとすればするほど、「足りない私」といふ自己認識が揺るぎないものになる。そしてそれを疑はなくなるのです。

件の説教を聞いて涙を流したのはたぶん、「足りない私」といふ自己認識を無自覚的に抱いてゐる人たち(概ね大半の一世)でせう。「やつぱりさうなんだ。神様に申し訳ない」といふ心性が揺さぶられて、思はず涙が流れる。

この啓示の内容そのものを考へる前に、ここで私には一つの疑問がある。

神はなぜ説教者自身に直接啓示を与へず、その説教を聞いてゐた若い女性に与へ、それを間接的に説教者に伝へなさいと命じられたのだらう?
といふ疑問です。

私なりの推論を立ててみます。

若い女性は、少し霊通する霊感の強い質だつたやうです。霊通するにはいろいろな内的要素が必要でせうから、多くはゐない。さういふ質の人は神にとつては貴重でせう。

しかし、恐らくそれだけではない。説教を聞きながら、彼女は違和感を覚えてゐたのではなかつたか。

「真摯で切実な説教には違ひないけど、どこかしつくりしない気がする」

どこがどうしつくりしないのか、本人にも理論的にはすぐに言へない。しかしその漠然とした違和感こそが、神にとつては人の心に通路を開く貴重なポイントだつた。

さう考へると、説教者自身にはその通路を開くことが神には難しかつた。「私は足りない、といふ言ひ分こそ、私の信仰告白」といふ思ひが頑固な石のやうに頭の真ん中に居座つてゐる。さういふ人に向けて「お前の考へは私と違ふ」とは、神も言ひにくい。

そんな状況の中で、「私は足りないといふのは、どこか変だな」と感じてゐる女性がゐた。だから神は彼女を経由する間接手法を取られた。

少し別な見方もあり得ます。

もし説教者自身に啓示が来たとすれば、それはそれで本人にとつて一つの大きな衝撃になり得たでせう。しかしそれは説教者自身の内部だけで起こつた内的出来事です。

それに対して、神の啓示が第三者を経由して本人に届くと、どうなるか。その啓示内容は神と啓示を受けた女性と説教者の3人の間で共有される、より外的で客観的な出来事になるのです。

このやうな迂回的な啓示は、旧約聖書に多く登場する預言者たちを連想させます。過半の預言者たちがかなり悲惨な最期を遂げたことを考へると、このやり方は危険性を秘めてゐます。それでも、さうするしか他に方法がない場合があるのでせう。

ここでもう少し深く考へてみます。

彼女は「啓示を受けた」と言ふけれども、それはもしかして啓示ではなく、彼女の「良心の声」といふ可能性はないだらうか。

良心は第2の神です。創造主である第1の神が、我々一人一人に与へた個人的(パーソナル)な神です。彼女とともにある良心が彼女に語りかけたとは考へられないでせうか。

しかし、それはなささうに思へる。

といふのは、良心は私のことにだけ関心があり、私にだけ責任を持たうとするものだからです。もし説教者に問題があるなら、その問題は説教者の良心が担当するでせう。そして彼女の良心は彼女自身の問題だけを本人に指摘する。決して「あの人には、あゝいふ問題があるからそれを伝へなさい」とは言はないやうな気がする。

あれこれ推論してみましたが、うまくまとまりません。この出来事は、ともかくいろいろなことを考へさせてくれます。

ところで、推論は推論として、ここで最も重要なのは、言ふまでもなく啓示の内容それ自体です。

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Comments 1

There are no comments yet.

やま

先程、お祈りの前に、ブログ村に来て、心情を高めたいと思って見つけたのが、この記事でした。
とても、感謝です。
有難うございました。

2021/01/16 (Sat) 15:44