人の生を受け、命あるは有り難し
人の生を受くるは難く、限りある身の、今、命あるは有り難し。 (『法句経』182番) |
お釈迦様が残した言葉を原典から『法句経』に漢訳したのは玄奘三蔵です。『西遊記』で孫悟空が仕へたとされる偉いお坊さんですね。
句の意味としては、前半が
「前世の所業によつては畜生に生まれても仕方ないのに、今世、人間として生まれてきたとは奇跡のやうなことだ」
そして後半が
「人として生まれたのみならず、有限な今世の寿命を今もつて長らえてゐるとは、これもまたほぼ有り得ないことだ」
この最後の言葉、漢訳で言へば「有難」が「有り難し」と和語で読まれ、時代を経るにつれて「有り難い」、つまり「感謝なことである」といふ意味になつていつたと思はれます。
『法句経』の中では「有難」は「ほぼ有り得ない」といふ意味だつたでせう。ところが「有難」であるにもかかはらず、人として今生きてゐる。それは神仏のお蔭とふしかない。その認識から「有難」が「感謝でございます」といふ意味に変遷したわけです。
さうすると、現在私たちが口にする「ありがたう」といふ言葉には、感謝すべき2つの根拠があることになります。
一つは、「人間として生まれたこと」。
もう一つは、「人間として、今まで死なずに生きてゐること」。
この2つさへ押さえれば、あとのことは些事に過ぎない。多少目鼻の造作が悪からうが、飛び抜けた才能がなからうが、それをもつて不平不満を言ふことはできないやうな気がする。
ところで、人間として生まれることは本当に「ありがたい」ことでせうか。
人は人であるがゆゑに、いろんなことに思ひ悩むし、愛憎に苦しむ。過去のトラウマを抱へ、未来に不安を感じる。比べてみれば、悠々と暮らす猫のほうが、むしろもつと幸福なやうにさへ見えないでせうか。
しかし、人間として最も「ありがたい」ことは、私が思ふに、「自分を自分で意識できる」といふことです。これは多分、人間以外のものではできないと思ふ。
「私とは、一体何者か?」
「私はどのやうに生きたら、もつと善い私になれるか?」
このやうな意識がなかつたら、私は絶対に変化できない。このやうな「私」として生まれたことが「有難」であり、最高に「ありがたい」ことです。

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