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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

記憶とは精神の異名

2021/01/14
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小林秀雄 岡潔
記憶とは 

記憶というのは精神の異名なのです。…
記憶というオーケストラは鳴っているんですが、タクトは細胞が振るのです。脳がつかさどるのはただ運動です。いままでの失語症の臨床では記憶自体がそこなわれると考えたのですが、ベルグソンの証明で、タクトの運動が不可能になるのです。記憶は健全にあるのです。
(『人間の建設小林秀雄岡潔


これは小林の発言です。

例へば、私が子どもの頃、夏の終はりになると家の周りを無数の赤とんぼが飛び回つてゐた。それを見ると「あゝ、もうすぐ夏休みも終はるなあ」と、少し寂しくなつた。そのときの様子と感情は今でもまざまざと思ひ出すことができます。それが「記憶といふオーケストラが鳴つてゐる」状態です。

その記憶の情景を映し出すといふ動きの指揮を執つてゐるのは脳細胞に違ひない。ところがもし、私の脳の一部に損傷が起こつて、その情景をまつたく思ひ出せなくなつたとする。そのとき、私の赤とんぼの記憶が脳細胞の損傷とともに消失したのかといふと、さうではない。

「記憶は健全に」残つてゐる。どこに残つてゐるのか。脳細胞ではない他のどこかに。

小林は別の講演で、かういふ譬へをしてゐます。

壁にコートを掛けるとき、壁に釘を打つてそれに掛ける。そのときのコートが記憶で、コートを掛ける釘が脳だといふのです。釘がなければコートを壁に掛けることはできないが、かと言って、釘がなくなつたらコートも一緒になくなるかといふと、そんなことはない。

小林は「記憶とは精神の異名だ」と言つてゐます。精神の働きは記憶だけではない。嬉しい、悲しい、何かを学んで理解する。さういふ様々な働きが精神にはあるでせう。

しかし、記憶といふものを抜きに精神の働きを考へることはできない。精神の働きの基礎をなすのが記憶だと言つてもいいでせうか。

記憶には時間の観念が伴ひます。私が覚えてゐる赤とんぼの情景は、明らかに数十年前の体験です。

ところが、脳細胞自体に時間の観念があるかと言ふと、それはあり得ない。脳細胞はいかに高度だとしても、所詮は物質ですから、「今」しかないのです。数十年前の記憶が蘇つてゐるとしても、蘇つてゐるのは「今」なのです。

それなら、記憶に時間の観念が伴ふのはなぜか。それは脳細胞ではない、記憶を健全に保管してゐるその「場」に時間の観念があるからでせう。

私の顔を鏡に映して見ると、皺(しわ)があちこちに見える。視覚から脳中枢に伝達された情報は、今の皺の数だけです。

ところが、
「俺も歳をとつてきたなあ。5年前よりだいぶ皺がふえてる。5年後にはもつとふえてるだらう」
と思つて溜息が出る。

昔のことを懐かしむのも、未来のことを懸念するのも、脳の中では「今」の現象です。それをある時間的観念で捉へるのは脳細胞自体ではない。

捉へる働き、あるいはその「場」を「意識」と呼んでもいいかと思ひます。「意識」が時間的観念を持つてゐるので、5年前の自分、今の自分、5年後の自分をすべて「同じ自分」と把握します。

先ほど、壁に打ち込んだ釘にコートを掛ける比喩を紹介しましたが、この譬へで言ふなら、「意識」とは壁も釘もコートもすべてを内包した「部屋」だと言つてもいいかも知れない。「意識」といふ「部屋」の中にすべての記憶があり、脳細胞も「意識」の中で「タクトを振る」といふ自分の役割を演じてゐる。

記憶にも、赤とんぼの情景のやうな自分自身が体験した記憶もあれば、自分以外のものが体験した記憶もある。前者の記憶を内包してゐるのを「顕在意識」、後者までも含むものを「潜在意識(集合的無意識)」と分けることができるでせうか。

このやうに考へていくと、記憶の問題は結局、「魂」とか「霊人体」の存在の問題に行き着くやうになります。脳細胞の働きだけでは、我々の人生のすべてを理解することは到底できさうにないのです。



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