「苦」はどこにあるのか
繰り返し拘るのですが、『原理講論』の「復活論」に「苦痛」といふ言葉が出てきます。
霊界の悪霊人が地上人に再臨し、地上人の罪を清算させるために何らかの「苦痛」を与へることがある。そしてその「苦痛」を「甘受」したときにのみ蕩減条件が立つて、罪が清算されるといふのです。
その「苦痛」とはどんなものか。「復活論」に具体的な説明はない。それで自分なりに考へてきたのです。
重い病気だらうか。
思ひがけない事故だらうか。
経済的な不遇だらうか。
人間関係の軋轢だらうか。
このやうな例は、どれもかなり深刻な「苦痛」です。しかしそれほどでもない「苦痛」は、日常的に経験してゐる。日常的には「苦痛」といふより「苦しみ」とか「悩み」などと言つているでせう。
般若心経の中に、
「度一切苦厄(どいっさいくやく)」
といふ一句があります。
「すべての苦痛を此岸(この世)から彼岸(あの世・神仏の世界)に渡す」
とでも訳したらいいでせうか。
この「苦厄」とはどんなものか。病気とか事故など、大抵は私の外から私に降りかかつてくるものと考へるでせう。
これに対して小林正観さんは、
「苦とは私の中で起こるもの」
と考へる。
私の中にさまざまな願ひや欲望がある。それが叶へられないとき、それが私の「苦」になる。「苦」とはつまり「私の思ひどおりにならないこと」だと言ふのです。
だとすれば、「苦」をなくすには「私の思ひ」をなくせばいい。それがお釈迦様の教への真意だと小林さんは考へる。
でもそれは、我々の願望も欲望もなくせといふことなのか。それがないのは、人間ではない。そんな人生は消極で灰色、達成感も喜びもないのではないか。さう思へます。
しかし「苦とは私の中で起こるもの」といふ考へ方で「復活論」を見ればどうでせうか。
「苦痛」は悪霊人が私に外側からもたらすものではありません。私の身に起こつた何らかの現象を、私が「苦」と感じるかどうかの問題です。
「復活論」では、苦痛を「甘受」すれば、それを蕩減条件として罪の清算処理がなされるといふ仕組みだと説明します。一方、般若心経的に考へれば、「甘受」とは、「苦」をこちら側(私の外側)からあちら側(私の内側)に渡すことです。
この現象は私を苦しめるためにやつて来たのではなく、私を助けるために現れた。そのやうに「渡す」ことを「甘受」と言ふ。
「甘受」は「甘んじて受け容れること」です。そのためにはまづ、私の「思ひ」をなくす必要がある。
「私はこんな病気になるべきではない」
「私がこんな事故に遭ふのは理不尽だ」
さういふ「思ひ」を一切なくして、目の前の現象をそのまま「受け容れる」。
思ひをなくして現実を受け容れる。小林さんは、さうする理由を「それが一番楽だから」と言ひます。「復活論」は、そこに蕩減条件が立つと言ふ。
しかし条件を立てるために受け容れるのでは、「苦」がまつたくなくなることがないでせう。ここが難しいところですね。
何を「苦」と見做すか。人生観に関はる深い問題だと考へる所以です。

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