歓迎する黒猫
ある旅館に数匹の飼ひ猫がゐて、その中の1匹が特技を持つてゐる。新しいお客さんが来ると、その宿泊する部屋までやつて来て挨拶をするのです。
その様子をテレビで観てゐると、それは黒猫で、部屋の戸口まで来るが、づかづかと入つてくる様子はない。客が招くと、遠慮がちに少し入つて来て、上りがまちのところで静かに座つてゐる。
それが黒猫流の挨拶ですが、お客さんはそれだけで何だか癒される。旅館の従業員が来て、お茶でも一杯注ぎながら歓迎してくれるのも嬉しい。しかし猫の控えめで無言の歓迎には、人にはない穏やかな嬉しさが伴ふ。
なぜだらうと、考へてみる。
猫は言葉を喋らない。とすると、言葉の元となるやうな心がない。心がないので、癒されるのではないか。そんな気がしてきます。
人には言葉がある。言葉の背後には心がある。だから、相手が何か話せば、あるいは無言でも、(無言の)言葉の背後にあるはずの心を感じる。あるいは推察する。
「この人は、本当に心から歓迎してくれてゐるのだらうか」
そんなふうにも思つて、どんな言葉で対応するのがいいかと考へなければいけない。
ところが猫の場合、さういふ心がないので、気にかける必要がないのです。猫はお金をもらつて、いやいや歓迎するふりをしてゐるのではない。
お客さんのことが好きでも嫌ひでもなく、お金のためでも仕事でもなく、なぜかは分からないが、部屋の戸口まで来て、しばらく一緒にゐてくれる。その心を慮る必要はまつたくありません。
私が猫の対応が気に入れば、
「この猫は私を好きで、歓迎しに来てくれたのだな」
と、私が思へばいい。猫はそれを肯定もしないし否定もしない。
我々もこの猫のやうになれば、相手を緊張させないでせう。
思へば、我々の心は物語に満ちてゐるのです。
「あゝいふタイプの人は嫌ひ」
「あの人は私のことをきつと好きではない」
「あの人に合はせないと、私を恨むに違ひない」
なぜそのやうに思ふか。あの人の表情や態度、言葉の中に現れる微妙な情報を読み取つてゐる(と思ふ)のです。実際、読み取つてゐるのかも知れない。しかしその情報は、実のところ、私の内面を映したものなのです。
「好きだ、嫌ひだ」
「合ふ、合はない」
「恨まれる、妬まれる」
さういふ情報は、私の内面から来てゐます。これが我々の堕落性の悩みです。
猫に心がないのかどうか、それは分からない。しかし物語はないやうに見えます。
我々には心がある。それでこそ人間です。しかし今の心は、勝手な物語を作り出す堕落性の沁みた心です。
堕落性のない心になれば、我々もあの黒猫のやうに(といふより、猫より遥かに)、相手に緊張感を一切生まない、癒しの存在になれさうに思ひます。

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