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日本語は日本なり

kitasendo
古池や

黒川伊保子さんは『日本語はなぜ美しいのか』の中で、日本語は世界の中でもごくごく少数派の珍しい言語だと言つてゐます。

欧米をはじめ世界のほとんどの言語話者において、母音は言葉の音として認識されておらず、右脳のノイズ処理領域で「聞き流されて」ゐる。それに対して日本語(とポリネシア語族)では、母音を主体に音声認識する。

言語を聴く脳の方式といふ視点で言へば、人類は大きく2つに分類されるといふ。すなわち、話者の音声を、母音で聴く人類と、子音で聴く人類です。

医学者の角田忠信先生もこれとよく似た研究をしておられます。

角田先生が左脳と右脳の働きを調べたところ、日本語話者とそれ以外とで非常に際立つた違ひがある。人の言葉を処理するのはどちらも左脳が主体です。これは共通です。

ところが、虫の音、川のせせらぎなどの自然の音を聞かせると、非日本語話者は右脳で「ノイズ」として処理してゐるのに対して、日本語話者だけは左脳主体で処理してゐるといふのです。



(この研究についてはいくつかの反論も出てゐるやうですが、ここでは触れません)

これはどういふことでせうか。私なりに解釈すると、日本語話者は多くの自然音を人間の言葉と同様のプロセス処理してゐるといふことです。言ひ方を換へると、自然の音にも「意味」を感じてゐるといふことです。

例へば、夏が終はりに近づくと、あちこちで蜩(ひぐらし)の声が聞こえるやうになる。すると私たち(日本語話者)は「あゝ、今年も夏が終はるなあ。もうすぐ秋だ。少し侘しいなあ」と思ふ。

あるいは、芭蕉が詠んだ俳句。

静かさや 岩にしみいる 蝉の声
古池や かわず飛び込む 水の音

かういふのも、蝉の声や水の音を左脳で聞いてゐる感じですね。ノイズではないので俳句になるのです。

俳句を英訳するといふ試みもあるが、その英訳詩から英語話者に蝉の声や水の音が左脳に響いてくるかどうか。それは甚だ疑問だといふことになります。

角田先生の研究で重要な点は、「日本語話者」といふとき、それは単なる「日本に生まれた日本人」を意味しないといふことです。日本語話者の脳の特徴は、日本人といふ遺伝的特質に由来するものではない。生まれてすぐ「日本語」を「母語」とする環境で育つた(最低10歳まで)人を日本語話者と呼ぶのです。

だからたとへ外国人であらうと、日本で生まれ日本語を母語とする環境で育ちさヘすれば日本語話者になる。逆にまた、遺伝的には日本人であつても、生まれながらに日本語環境で育たなければ(たとへ10歳以後に日本語を習得したとしても)日本語話者にはならない。

話者の音声を母音で聴く脳。それをこの上なく尊びながら、黒川さんは、
「日本語をないがしろにすることは、『日本』を失うことである」
とまで言ひます。

日本語をないがしろにすると、話者の音声を母音で聴かない脳になり、虫の音や川のせせらぎに「意味」を感じにくい脳になる。さうなると、二千有余年に亘つて受け継がれ形成されてきた「日本」といふものそのものが消滅してしまふ。

「(日本語をないがしろにすると)神様にも仏様にも、大地の恵みにもお天道様にも感謝して暮らす、大らかな日本人はいなくなってしまう。心を寄せ合って暮らす、優しく鄙びた日本人は、いなくなってしまう。損得ばっかり気にして、感謝よりも先に権利を口にする、尖った心根の国民になってしまうに違いない」(黒川)

「言葉は人なり」と言ひますが、
「日本語は日本人なり」
「日本語は日本なり」
といふことになります。

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Admin:kitasendo