私は限りなく完成に近づいてゐます
『原理講論』によると、我々人間はこの世に生まれて、蘇生、長成、完成の3段階を経て「個性完成」するといふ。その期間は、本来であれば18年から21年。それで結婚の準備が整ふ。
さうは言ふものの、
「完成とは、どういふ状態なのか」
「どのやうにしたら、完成に至るのか」
などといふ具体的なことは、よく分からない。
ブログ「いつも私のとなりに神様」の記事によると、ある人がこのことが非常に気にかかり、立派と思はれる何人もの先輩に、
「あなたは成長のどの段階におられますか」
と尋ねた。
ところが、誰に聞いても明瞭な答へはない。その中で、唯一明確に答へられたのが金元弼(キム・ウォンピル)先生だつたといふのです。
金先生の答へは、
「私は今、完成期にゐます。そして限りなく完成に近づいてゐます」
といふものだつた。
これはとても希望的な答へですね。金先生と言へば、文鮮明総裁の第一弟子。最も長く従つて来られた方です。その方が「完成が間近だ」と言はれれば、我々にも可能性があり得ます。
しかし「個性完成」は、なかなかの謎です。文総裁はかう言つておられるさうです。
「完成したら、自然に完成したと分かるんだよ」
完成を客観的に測る基準はない。「自然に分かる」とは主観でせう。
しかも、その私は完成するまで未完成である。未完成の私には完成の実感的イメージはない。それなのに、完成したら「完成した」と分かるとは。
金先生はどのやうに「自分が今限りなく完成に近づいてゐる」と分かつたのでせうか。
「メタ認知」といふ概念があります。「メタ」とは「より高次」といふ意味で、「メタ認知」とは、「自己の認知のあり方に対して、それをさらに認識すること」です。
有名な実例では、ソクラテスの「無知の知」。当時の知者たちが「自分には知恵がある」と思つてゐたのに対して、ソクラテスは「自分には知恵がないことを知つてゐる」といふメタ認知があつた。
認知の成長は、「無知」→「知」→「無知の知」と進みます。だから「知」は「無知」を未熟だと分かり、「無知の知」は「知」を未熟だと分かる。
我々も自分が成長してゐることを何となく感じることはできます。あることをきつかけにして、これまで気がつかなかつたことに気づく。感じなかつたことを感じる。できなかつたことができるやうになる。
さういふとき、
「自分は1段階、成長した」
といふ感じがします。
それは、1段階上がつた立場から前の段階を見下ろして、その違ひを成長と感じるわけです。しかし1段階上がる前に「自分は次はこのやうに成長する」とは分からない。原理的にはさうでせう。
金先生はこれまで1段階づつ成長してきた過程から、今後もいづれ出会ひさうな次の段階を予感はできた。だから「完成に近づきつつある」とは言へたと思ふ。しかし「私はこれで完成した。これ以上の段階はない」とは言へるだらうか。
金先生が個性完成に向けて近づきつつあつたことを疑ふのではありません。私も同じ道を行きたい。
ただ、不思議に思へるのは、我々の成長と完成の認定が我々自身の自己認識に委ねられてゐるやうに見えることです。我々の自己認識には理屈を超えた神秘的な能力が賦与されてゐるやうに思はれます。

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