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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

私は特別の人気者

2020/12/14
世の中を看る 0
画商さんま 

現役総理大臣の名前を知らなくても「明石家さんま」の名前を知らない人は、今の日本にはゐないでせう。人気のあるタレントの中でも、さんまさんは別格です。

昨夜のテレビ番組では「画商」として登場してゐました。彼が全国から絵を募集し、その中からこれはといふものを彼が選び出し、それを展示して値をつけて売りまくる。彼の隠れた才能を見せる企画です。

素人、プロの画商、様々な人がやつて来て、気に入つたものを見つけて、次々に購入する。才気あふれる絵も多いと感じた一方、展示会で光つてゐたのは、やはり「画商さんま」なのです。

ある女性は、会場にやつて来て「さんまさんは、どこですか?」と聞く。そのときは代理に、中堅クラスのタレントが対応したのですが、女性は彼には目もくれない。

彼女は、気に入つた絵があれば買ひたいと思つてゐるが、それ以上に、画商さんまと、買つた絵を背景にツーショットの写真を撮りたいと願つてゐるのです。

かなりの来場者は、画商がさんまさんだから足を運んでゐたと思はれます。

ふつうの展示会なら、「この絵が好きだから買ふ」といふ買ひ方でせう。しかし、画商さんまの展示会は必ずしもさうではない。絵そのものも勿論いいのですが、その絵を画商さんまの一押しで買つたといふところに価値を感じてゐるやうに見えるのです。

その様子を見ながら、さんまさんの「人気」とは、どういふことだらうと考へる。さんまさんに限らず、「人気」といふのは大体、空気のやうになかば得体の知れないものです。

例へば、芸人であれば、「話術がうまい」「ギャグが面白い」などといふ技能才能が「人気」の核にあるやうにも思へます。しかしそれだけなら、中堅クラスの人気者にはなれるでせうが、それ以上にはなれさうにない。さんまさんには、技能才能以上の何かがある。

私は特別の人気者と見られるに相応しい人間だ
と、さんまさん自身がはつきりと思つてゐる。

昨夜の番組を見ながら、私はそんな感じがしました。

その思ひは、さんまさんの「自己イメージ」なのです。必ずしも傲慢ではない。

「人気」といふのは、周りの人たちがその人をどう感じるかにかかつてゐると、ふつうには思はれるでせう。しかし実のところ、人気の本質は、その本人が自分をどのやうに見てゐるかといふ「自己イメージ」ではないか。

「特別の人気者だ」といふ自己イメージを持つてゐる人は、そのイメージに合つた振る舞ひをする。それは、仕事としての芸をしてゐるときだけではない。身近な人と話してゐるときも、さらには家族と過ごしてゐるときも、どんなプライベートな場面でも、このイメージで生きるやうになる。

さうすると、どうなるか。

彼に接する人は、彼が持つてゐてごく自然に発してゐる「特別の人気者だ」を感じ取る。すると、接する人はほぼ無意識に「特別な人」に接するに相応しい接し方をしてしまふやうになるのです。その接し方が、その人の「人気」をより確固たるものにしていく。

つまり、その人の「人気」は周りの人たちではなく、核心においては、その人自身の「自己イメージ」が支えてゐる。さういふことになります。

さらに考へてみると、これは独りさんまさんに限つた話ではない。我々は誰であれ、自分が抱いてゐる「自己イメージ」によつて人々から見られてゐると言つて差支へないでせう。

私が
「私はつまらない人間だ」
といふ自己イメージを持つてゐれば、「つまらない人間」として扱はれる。

私が
「私は才能のない人間だ」
といふ自己イメージを持つてゐれば、「才能のない人間」として軽んじられたり、逆に同情されたりする。

周りの人たちは、私が実質的に「つまらない人間」だとか、実質的に「才能のない人間」だなどと評価してはゐない。私自身が抱いてゐる「自己イメージ」に反応して評価し、その評価の通りに接してゐるのです。

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