「一」といふものは定義しない
一を仮定して、一というものは定義しない。一は何であるかという問題は取り扱わない。 (『人間の建設』岡潔・小林秀雄) |
これは数学者岡博士の発言で、「一」についての数学における態度です。
数学は「数字」を土台として成り立つ学問と思はれるのに、「一が何であるかは、不問に付す」といふのです。「一とは何か」。そんな基本的なことが、数学には分からないのでせうか。
「一」つて、簡単ではないか。「林檎が一つ、目の前にある」。これが「一」ではないの? 子どもにだつて分かる話だ、とも思へる。
深く考へなければ、自明に見える。しかしどうも、深く考へれば考へるほど、自明に思へなくなるやうです。
コンピュータは「0」と「1」の世界です。「1とは何ですか?」と尋ねれば、「0ではないものです」と答へる。それなら「0とは何ですか?」と訊くと「1ではないものです」といふ答へになる。循環論法です。「0」も「1」もその正体は分からない。
数学者が分からないと言つてゐる「一」を、なぜ我々は分かつてゐるつもりでゐるのか。岡博士によれば、人は大体生後18ヵ月頃に「一」を知るらしいと言ふのです。
岡博士が赤ん坊を観察してゐると、生後18ヶ月頃までは、無意味に笑つてゐる。その笑ひは謂はば、体の振動なのです。
ところが18ヶ月頃を境にして、「にこにこ」笑ふやうになる。笑ふといふ行動が、特定のことに対する特定の感情として現れる。単なる体の振動ではなくなるといふのです。
もちろん、18ヶ月の赤ん坊が数学者でも手こずるやうな「一」の理解をするのではない。謂はば、論理でも言葉でもない方法で「一」を理解するのです。そして、我々ふつうの大人の「一」の理解も、この18ヶ月の理解が土台になつており、それからほとんど発展してはゐないのです。
「一」に対する、かういふ理解の仕方を見ながら、岡博士は「人間には2つの心がある」と考へる。第一の心は、ものごとを「意識」を通して分かる。これは「言葉」で「これこれ、かういふことです」と説明できる分かり方です。
それに対して第二の心は、ものごとを「意識」を通さずに分かる。誰でも「一」が分かつてゐるやうな気がするのは、この第二の心があるからです。しかし言葉では説明できない。
第二の心が根底にあつて、そこから第一の心が出てくる。2つの心はさういふ関係にあります。だから、第二の心がなければ、我々は人間として正常に考へ、判断して、正常に生きてはいけないと思はれます。
例へば、「10歳の時の私」と「60歳の時の私」を「同一の人物」だと考へて疑はない。50年の間に体の細胞は何十回となく総入れ替へされてゐるはずなのに、それでも「同一」だと思ふのです。
あるいは「夫婦一体」などと言ふ。夫は一人、妻も一人と考へながら、その二人が一人になるといふ関係を夫婦の理想だと考へてゐます。二人が「一体」とは、どういふことでせうか。第一の心では理解できません。
「一体」についてはこの他にも、「心身一体」とか「神人一体」などとも言ひ、さらには「神のみ旨と一つにならう」などとも言ひます。これらも第一の心では、どういふことなのか分からない。
神について、キリスト教では「三位一体」と言ひ、統一原理では「陽陰の中和的主体(統一体)」だと説明する。第一の心でいろいろ言葉を使つて説明しますが、究極的には第二の心なしには理解できないでせう。
それでも、これらはやはり、「ここに林檎が一つある」といふほどには分かりやすいとは思へないが。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
無明なる私 2020/01/24
-
命の転写 2020/08/30
-
おつかさんといふ蛍が飛んでゐた 2020/05/25
-
ときどき意地悪な介護士 2020/10/08
-
スポンサーサイト