あゝ、これが本当の自分なんだ
私は意識が実に生々しくクリアになってゆくのを感じていた。自分自身が明らかになってゆく奇妙な感覚である。 それと同時に、心のほうはどんどん静かになっていった。この世における未練が遠ざかってゆき、仕事のことも、大切な人々のことも、何もかもが本来の自分とは無関係であり、地球で生活していた全ての出来事は地球にいた時のみ関わっていた雑事である事を感じていた。 (『そういうふうにできている』さくらももこ) |
さくらももこさんと言へば、国民的人気漫画「ちびまる子ちゃん」の原作者です。彼女はなかなかの思索家で、長い間「自分とは何者か」「心は脳から生まれるのか」などといふことを考へ続けてゐたやうです。
それであるとき、奇異な体験をした。難産で帝王切開になつたとき、麻酔をかければ意識が遠のくやうにも思へるのに、逆に意識が生々しくクリアになつていくのを感じたのです。それと同時に、心はどんどん静かになつていつた。
そしてそれに続いて起こつた感覚が、この世への未練の消失です。
さくらさんはこの体験から、脳と心と意識はみな別物だと考へるやうになつたやうです。
「意識」といふ言葉は、人により場合によつて、かなり多くの意味合ひで使はれてゐるので、「魂」と言つたはうが分かりやすいかも知れない。いづれにせよ、麻酔によつて脳の機能が低下する中で、逆にクリアになつていつた「意識」こそ本当の自分ではないかと、彼女には思へたのです。
ところが、意識が本当の自分だとしても、意識それ自体だけでは環境を知覚したり他人と交流したりできない。そこで意識は乗り物として「肉体」を必要としたのであり、その中枢を担ふのが「脳」だといふわけです。
脳は、言葉で思考したり、感情や情報を他人に伝達したり、体験を記憶したりする。これが脳の重要な役割です。脳は決して私自身ではあり得ません。
それなら「心」とは何か。「意識」と「脳」は存在するが、「心」は存在しないと、さくらさんは考へる。「心」とは「意識が脳を使用してゐる状態」のことだと言ふのです。
「意識」は無形の実体、「脳」は有形の実体、そして「心」は特定の「状態」だと、さくらさんは考へる。だから麻酔によつて脳がその機能を低下させると、それに呼応して「心」は静かになつていつた。そして「心」が静かになるほど「意識」がクリアになつてきて、「あゝ、これが本当の自分なんだ」といふ疑ひの余地のない感覚に満たされた。
「意識」「魂」「心」「脳」といふ問題は古今東西論じられてきて、百花繚乱、多種多様な考へ方があります。それでも、私の本体(正体)が何かと言へば、それは「意識」(あるいは「魂」)であるといふことに、私は同意します。
エックハルト・トールは
「『私』とは、自らについて意識的になつた意識である」
と言つてゐます。これはなかなか意味深長な表現です。
「意識的になる」とは、「見る」「観察する」と言ひ換へてもいいと思ふ。量子論によれば、素粒子は観察されるまでは「波動」であり、観察された瞬間「粒子」になると言ひます。とすれば、「観察する」つまり「意識的になる」とは、波動を粒子に変換する力なのです。
「量子脳理論」の提唱者の一人、スチュワート・ハメロフの言葉を借りて「神」を「原意識」と表現すれば、神は宇宙で初めて「自らについて意識的になつた方」だとも言へます。そしてその「意識する力」によつて、波動が粒子に変はる世界を創造されるやうになつた。
我々一人一人も「原意識」の断片、あるいはミニチュアを持つてゐる。だから「意識」が私の本体だとも言へるし、その意識で観察することによつて私の宇宙を作り出してゐるのです。
私とあなたの意識は別々だから、私とあなたは別々の宇宙に住んでゐる。2人が隣り合つて同じ方を向いて座つてゐれば同じものを見てゐると思ふが、実はさうではない。私は私だけの脳を作り(粒子化し)、私だけの環境を作つて、その中で暮らしてゐます。
唯一無二の私の宇宙で、私と神との関係も唯一無二です。他のいかなる人も介入できません。
さくらさんはすでに乳がんで他界されました。地球での生活には一切の未練を残さず逝かれたでせうか。現世は、私といふ意識がさまざまなことを実感的に体験するといふ意味では必要不可欠ですが、永遠の住処ではない。「心」が静かになり切つた、「意識」がクリアな世界に住みたいものです。
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