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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

質素と正直の黄金時代

2020/11/27
読書三昧 0
黄金時代

先日の記事「滅んだ一つの文明を哀惜する」の続きです。

彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。— これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。
私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。
(『日本滞在記』タウンセンド・ハリス)


江戸時代末期から明治時代にかけて来日し滞在した西洋人は多い。そして彼らの多くが日本の印象を日記や見聞記などの形で残してゐます。上記ハリスの日記はその中の一つです。

米国人ハリスは、科学技術において、あるいは文物の豊かさにおいて、近代工業化を経た自分たちの優位を自負してゐたでせう。しかしその反面、これから自分たちがこの国に持ち込まうとしてゐる西洋的なものが、深いところで、この国に害を及ぼさないかと危惧してもゐる。自分たちが持ち合はせてゐない何か価値あるもの、それがこの国に自然な形で存在することを直観してゐるのです。

彼の日記に出てくる
「皆よく肥えてゐる」(食糧事情は結構良かつた)
「身なりも良い」(持ち物は少ないが清潔である)
「幸福そうである」(豊かでなくても満ち足りてゐる)
「富者も貧者もない」(富者は過度に飾らず、貧者も羨まない)
「質素である」(外面を華美に飾らない)
「正直である」(嘘をつかない、騙さない)
といふやうな特質は、他の観察者たちも皆一様に指摘するものです。

これにもう少し付け加へるなら、
「陽気である」
「人懐つこい」
「親切である」
「子どもを可愛がる」

などといふ指摘もあります。

その他に、こんな観察もみられる。

日本人の家庭生活はほとんどいつでも戸を開け広げたままで展開される。(従って)どこかの家の前に朝から晩まで立ち尽くしていれば、その中に住んでいる家族の暮らしぶりを正確につかむことができる。
(『江戸幕末滞在記』エドワード・スエンソン)


古典落語に、長屋の夫婦喧嘩に「兄(あに)さん」などと呼ばれる世話焼きが仲裁に入るといふやうな噺があります。スエンソンの記録はまさに古典落語の世界そのままです。

良くも悪くも、個人主義とかプライバシーなどといつた観念がなかつた。だから、江戸時代において、ふつうの町屋は夜、戸締りなどしてゐなかつた。この感覚は、明治期を通じ、地方の小都市では昭和の戦前期まで一般的だつたやうです。(実は、我が家は今でもさうです)

日本の社会がこんなふうなので、外来者たちも「自宅のドアに鍵をかけるなど、まったく念頭にも浮かばなかった」。

それで、こんな証言もある。

私はすべての持ち物を、ささやかなお金も含めて、鍵も掛けずにおいていたが、一度たりともなくなったことはなかった」
(『ドイツ人宣教の見た明治社会』カール・ムンツインガー)


もちろん人の世であれば、欠点や悪習がないわけはない。しかし、かういふ開けつぴろげで安心安全な社会といふのは、その住人にとつてどれほど快適でせうか。それを当の日本人自身は自覚してゐないが、西洋人たちには感じられる。

さういふ社会は、簡単にも偶然にも出来上がるものではない。我々日本人が千年二千年かけて、日本列島といふ国の中で営々と培つてきた貴重な精神性といふものがなければ、かういふ文明は出現しなかつたでせう。

当時と比べると、ここ100年くらゐで日本も随分変はつたなと思ふ。豊かで便利にはなつたが、一方で失つたものも確かにある。本のタイトル通り、「逝きし世の面影」としてしか偲べないやうにも思へます。

しかしあの精神性が日本人の中からまつたく失はれたとは思へない。何か不変なものが今の私にも脈々と流れてゐるやうな実感がある。それは嬉しくもあり、誇らしくもあります。



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