滅んだ一つの文明を哀惜する
渡辺京二は『逝きし世の面影』で、哀惜の情をもつて一つの文明の滅亡を描いてゐる。その文明とは、江戸文明とか徳川文明などと俗称されるもので、18世紀初頭に確立し、19世紀を通じて存続した日本の生活様式のことです。その文明は明治末期にその滅亡がほぼ確認されてゐたのですが、その余映は昭和前期まではかすかに認められてゐたと言ひます。
なぜ哀惜するのか。この文明は1回限りのもので、一度滅んでしまへば、それを二度と再生することはできないからです。
正直に言つて私はこれまで、この時代の日本に対してさほど肯定的なイメージを持つてゐなかつた。しかし本書を読むと、「本当にこんな文明だつたのか」と驚くことが実に多く、著者同様、「これが永遠に滅んでしまつたのか」といふ哀惜の情を禁じることができないのです。
著者は文化と文明について、こんなふうに言ひます。
文化は滅びないし、ある民族の特性も滅びはしない。それはただ変容するだけだ。滅びるのは文明である。つまり歴史的個性としての生活総体のありようである。 |
文明はある特定のコスモロジーと価値観によつて支へられる。その上に独自の社会構造と習慣と生活様式が現れ、それらのあり方が自然との関わりから身の周りの生活用具にまで反映される。
かういふものの総体は、確かに非常に絶妙な土台の上に造られ、それだけに一旦崩れてしまへば二度と同じものを創造することはできないでせう。600項に及ぶこの大著は、この江戸文明への貴重な証言録です。
証言者は、この当時に来日し、短期長期滞在してこの文明に触れた異国人、そのほとんどは西洋人です。このやうな人たちの証言にはそれなりの価値があります。
日本人自身はこの文明の生活者ですから、それがどんなものか、特に世界の他の文明との比較でどこがどのやうに特異なのかを自覚できない。その点、西洋の証言者たちは本国との比較はもとより、来日前後に滞在した中国・朝鮮やその他のアジア諸国との比較もできる。その比較の中で、彼らの多くが非常に驚嘆し、惹きつけられたことを詳細に記録してゐるのです。
それを読んで、
「私の先祖たちは、こんな人たちだつたのか! こんな暮らしをしてゐたのか!」
と、私も正直驚くことがとても多い。これまで抱いてゐた漠然たる負のイメージが大きく深く変はつたといふのが実感です。
現実にはつねに表と裏、光と影があるものでせう。滅んでしまつたこの文明にも不幸で醜い要素があつたに違ひない。しかしそれを認めた上で、好ましい面も知つていくと、わが民族への愛着と誇りが湧いてくるものです。
我が文明がどんなものであつたか。項を改めて、いくつか紹介してみようと思ひます。

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