情緒が自然界に住んでゐる
人はじかに自然に住んでいるのではない。めいめいの観念の世界をつくり上げ、それを自然界に投影し、さらにその上に感情、意欲を働かせて独特の想念の世界をつくり上げ、その中に住んでいるのである。 (『紫の火花』岡潔) |
「自然」とは「物質世界」と言ひ換へてもいいかと思ひます。
「私は今、家の中にゐる」
「私は今、椅子に座つてゐる」
「私はご飯を食べて生きてゐる」
「私はかういふ人たちと関係を結んでゐる」
たいていそんなふうに思つて生きてゐます。しかしその考へは正しくない。
私は物質世界のどこか一点を占めて、そこに存在してゐるのではなく、私が作り上げた私だけの想念の世界に住んでゐる。その想念の中に「私の家」があり、「私の隣人たち」がゐる。これが正しい自己認識だと言ふのです。
自然界に住んでゐると思つてゐる「私の体」も自然(物質世界)の一部です。本当の「私」ではありません。
それなら本当に住んでゐるのは誰か。「私といふ心」と言つてもいいでせうが、岡先生はそれを「情緒」と呼んでゐます。
「情緒」は人それぞれでみなその色合ひが違ふので、それぞれ独特の想念世界を作り出してゐます。だから親しい3人が一緒に話してゐても、その3人はそれぞれ別々の世界に住んでゐて、相手が住む別の世界と会話してゐるのです。
「それでも、仲の良い人とはお互ひに相手の考へが分かり、心が通じてゐるぢやないか」
と思ひます。
しかしどうもそれは、主として「言葉」と「五官」による一種の錯覚と思はれます。
「この花、きれい」
と私が言つて相手が頷けば、
「相手も私と同じやうにきれいと思つてゐる」
と私は思ふ。
しかし実は、「私が見るきれいな花」と「相手が見るきれいな花」は別々の想念の世界にあつて、その2つが「きれい」といふ「言葉」でブリッジされてゐるといふ状態です。それぞれが独特の想念の世界に生きてゐるので、「きれい」といふ観念の内容は双方で同じではあり得ません。
「そんなことを言つたら、誰とも本当には心が通じない、孤独で寂しい世界ぢやないか」
といふ気もします。
確かに、通じないと言へば通じない。しかし、より実情に即して言へば、我々は相手を通していつも自分の想念世界を感じてゐるのです。
つまり、自分の想念世界が清浄であれば、相手の中に清浄さを感じる。自分の想念世界に憎しみがあれば、相手の中に憎しみを感じる。さういふ関係になつてゐます。
だから私がまづ第一に優先してすべきことは、自分の「情緒」を清浄にすることです。岡先生は「情緒」と表現されますが、別の言葉、例へば「心情」と言つてもいいでせう。
岡先生は
「情緒は実在する」
と言ひます。これは重要なことです。ある意味では、自然界以上にリアルに実在するのが「情緒」です。
「情緒がこの自然界に住んでゐる。それが『私』だ」
と言へばいいでせうか。
この「私」は実在するのですが、自然界の一部ではないので、客観的な科学の研究対象にはなりません。脳は自然界の一部なので科学の対象になりますが、科学を操作するのが「私」なので、科学では「私」を究明できないのです。
それで哲学者も宗教家もスピリチュアリストも困る。
そこで、
「『私』とは、自らについて意識的になつた意識である」(エックハルト・トール)
などと表現してみたりするのです。
情緒が実在するといふことについて、岡先生はかういふ実体験を挙げてゐます。
数学者だから、数学の講義をする。あるとき、講義の前日にノートを丁寧に書いて、講義の準備をしたことがある。それでうまく講義ができるだらうと思つたのです。
ところが、いざ講義を始めて見ると、全く反対であつた。全然講義ができない。言葉が出てこない。
それで岡先生は、こんなふうに悟つたのです。
「情緒が実在するといくらでも講義できるのだが、それがかつて実在したといふ記憶(前日に準備したノート)に変はつてしまつたら、一言も出なくなる」
これと似た体験は、私にもあります。
教育部長の頃、講義内容を事前によく準備しても、あまりうまくいかない。たいてい色んな不満が残る。
それに対して、大まかな筋書きだけ思ひ描いてメモもなしに臨むと、思ひがけない講義、「どうして自分にこんな講義ができるんだらう」といふやうな良い講義になることがしばしばあつたのです。
「情緒」(あるいは「心情」)を清浄にすればするほど、私の見る世界、私の住む世界は清浄になります。

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