おばあちやん、哲学者になる
体調を崩して、先月末に入院したおばあちゃんが2週間ぶりに退院して、1週間になる。
入院中に3キロも太ったのを見ると、自宅介護ではだいぶ栄養が足りなかつたやうです。入院中に見る見る元気になり、言動もしつかりしてきたので、「病院はやはりプロだな」と思ふ。正直、病院を見直した。
退院後もできるだけ病院レベルの食事を心がけ、今のところ、元気な様子が続いてゐます。
ところで、そのおばあちゃんが今日の明け方のこと。トイレに起きて、ぼんやりした目で言ふのです。
「自分が誰か、分からんやうになつたんよ。分からんやうになつたことが、分かるんよ。おかしいね」
「おばあちゃんは、てつこでしよ」
また少し認知が進んだかと思ひながら、さう答へたあとで、衝撃が走つた。
おい、おばあちゃん、ついに哲学者になつたんかい! 私は内心びつくりした。
「自分が誰か分からなくなつたといふことが分かる」
どうしてこんな凄いことが言へるんだらう?
私は
「自分が誰か分かつてゐるといふことが分かつてゐる(つもりでゐる)」
しかしおばあちゃんは
「自分が誰か分からないといふことが分かる」
と言ふ。おばあちゃんのはうがどれほど真実に近いだらう。
「おばあちゃんは、てつこ」といふのは、おばあちゃんの名前を言つたに過ぎない。「おばあちゃんが誰か」といふことへの解答ではない。
おばあちゃんは続けて
「今自分がどこにゐるのか、分からなくなつた」
と言ふ。
「大丈夫。家にゐるよ。息子も一緒にゐるよ」
と答へると、
「さうかね。よかつた」
さらに続いて、
「夕飯をまだ食べてないね」
と言ふので、
「寝る前に夕飯を食べたでしよ。もうすぐ夜が明けたら、朝ご飯を食べよう」
と諭すと、
「さうかね。食べたかね」
と言つてきよとんとしてゐる。
この一連のやり取りは、私がまともで、おばあちゃんがボケてゐる。一旦はさう思つたのですが、そのあと、「本当に私のはうが正しいと言へるのか?」といふ疑問が起こつた。
ここが自分の家だと言ふのだが、本当にさうか。どこにその確証があるのか。
夕食は何時間も前に食べた。食べたのはお粥や茶わん蒸しにヨーグルト。私はさう覚えてゐるやうに思つてゐるが、その記憶は本当に正しいのか。どうやつてそれを証明することができるか。
もしかして私もボケてゐて、今ここが自宅だと思ひ込んでゐるのかも知れない。夕ご飯も済ませたと思ひ込んでゐるのかも知れない。さうではないと言へる根拠があるだらうか。
おばあちゃんが「夕ご飯、まだだね」と言ふとき、私は「お腹が空いてゐるかね?」と聞き返す。すると「腹は減つてない」と言ふので、「それなら夕ご飯、済んだんだらうね」と答へると、おばあちゃんは納得する。
記憶で判断しないで、今の体の実感で判断するわけです。しかし、その判断が劣つてゐるとは必ずしも言へない。
「私は誰なのか」
「私は今どこにゐるのか」
「私は何を食べて生きてゐるのか」
さういふことを改めて考へさせてくれる明け方のおばあちやんだつた。

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