そんなものより、生命の木になれ
フランスに住みだした頃、高校の同級生SKへの手紙に書いた。 「いつか日本のシッダールタか、現代の親鸞になりたい」 そしたら、彼の返事にこうあった。 「そんなものより、小坂井敏晶になれ」 (『答えのない世界を生きる』小坂井敏晶) |
最後の一言は繰り返し読むと、第一印象より遥かに深みを持つた一級の禅問答のやうな言葉に感じられてくる。この同級生は、なかなか本質を弁へた人です。
小坂井氏はこの他に、こんなエピソードも紹介してゐます。
「科学が実験データを解釈するように、テクストの解釈が哲学の仕事だ」 日本の大学院生に言われて唖然とした。何を研究しているかではなく、「誰を研究しているのですか」と尋ねられ、辟易する。カントにおける主体概念、ハイデガーにおける時間概念、レヴィナスにおける責任概念…。そんなものは、どうでもよい。 「自分にとって、主体とは、時間とは、責任とは何なのか」 (同上) |
私がいくら根ほり葉ほりカントを研究しても、カントにはなれない。私は他の誰かの考へや思想を身につけようとしても、結局私は私にしかなり得ない。
私は努力すれば警官にもなれるし、弁護士にもなれる。しかしついに、私以外の誰かにはなることができない。
これは別に不思議な話ではなく、言ふまでもないほどに当然なことに思はれる。同級生が「小坂井敏晶になれ」と書いたのも、別に奇をてらつたことではない。ただ、それをはつきり言はないと、つい「私はシッダールタになれるかも」と思ひ込んでしまふ。その一言で、小坂井氏もはつとしたのです。
ここで重要なのは、「小坂井敏晶になれ」といふのは、「どうせ小坂井敏晶以外の人間にはなれない」といふ意味であると同時に、「本当に小坂井敏晶になることは、実は容易でない」といふ含意もあることです。
「私は本当に私になつてゐるだらうか」
と改めて自問すると、答へに詰まりませんか。私は、詰まる。
なぜかといふと、
「私とは一体何者なのか」
といふことがそもそも、自分にもよく分かつてゐないからです。
昔教育部長の頃、受講者にワークを課したことがあります。
「私は誰かといふことを、思ひつく限り書き出してみてください」
「私は誰か」など、ふだん改めて考へてみたことなどない人がほとんどです。しかしそれでも少し頭をひねつて考へれば、いろいろ答へは出てくる。
それで大抵は、まづ自分の名前を書く。次に、男であるか女であるか。それから今の職業。これまでの経歴。家族の中あるいは勤め先での立場…。
さういふものが数十は出てきます。しかしそれらが本当に「私」なのか。それらは「私」を示す符牒のやうなものであり、しかもそのほとんどは永続性のない一時的な属性ではないのか。さう重ねて質問すると、「う~ん」と唸る。
「それなら、私は一体誰なんですか。教育部長は知つてゐるんですか」
さう聞かれても、実は私も分かつてゐないのです。
「実は私も分からない。ただ、聖書にはそれを『生命の木』と言つてゐるやうなんですが…」
「私は誰の誰兵衛である」と思つてゐるその何者かは、一体誰なのか。この疑問は、実はこれまで多くの哲人、宗教人が自分に問ふてきた根本的な疑問なのです。この疑問さへ解ければ、宇宙の秘密が解けると思つて取り組んできた。
だから「カントにおける私」とか「仏教における私」「原理における私」などと論じて済む話ではない。「私における私」が必要なのです。しかしこれはどうも小坂井さんの本のタイトル通り「答えのない」疑問として問ひ続けるしかないもののやうに思へます。

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