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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

何だ、私は宇宙のごみか

2020/11/16
訓読三昧 0
宇宙のごみ 

私の思いと行動、実績が神様と関係ないものであれば、宇宙のごみとして消えていくのです。何だ、私はごみか。
人生なんて、うそばっかりなのです。なぜか。自己中心から出発しているからです。だから、結果も自己中心にならざるを得ないのです。
(梶栗玄太郎・日本家庭連合第12代会長)


ブログ「
いつも私のとなりに神さま」が紹介してくれた説教の内容を参考にしてゐます。

かねてより、故梶栗元会長は率直な方だなと感じておりましたが、この説教からもその印象を強くします。

引用した箇所の前提として、こんなふうに語つてゐます。

「人間は思想で動いているのです。『自分はこう思ふ、だからこうする』と。… 善悪の基準も、『これが絶対だ』と思う。つまり実は『私』が決めているのです。結局は『私』が入っているのです。(その『私』が)『これがみ旨だ』と思って実践してきたのです」

人の行動や生き方は、思想に基づいてゐる。その思想は善悪の基準に基づいてゐる。善悪の基準とは「これは正しく、あれは正しくない」といふ判断の基準です。

その基準は「み旨」つまり「神の創造原則と目的」に基づいてゐると思つてゐたのに、どうやらそれは思ひ込みだつた。よくよく考へてみると、「私」がその基準を決めてゐた。この基準に基づいて一生懸命頑張つても、所詮最後は「宇宙のごみ」になつて消えていくしかない…。

「宇宙のごみ」とはあまりに詩的な表現です。それだけに、元会長の深刻な感慨が伝はつてきます。

「思想」と言つても、ふつうはきちんとした体系といふものがあるのではない。「かういふ生き方をしよう」といふくらゐのものは、大抵誰でも持つてゐるでせう。それを決めてゐるのが、自分の中にある「善悪の基準」なのです。

ただ、ふつうの人であればその基準は、世の中の常識や何となく自分が考へたものでせうが、宗教者は少し違ふ。その宗教が持つ明確な教義や善悪の価値観があつて、それに従つて生きていかうといふ「思想」を抱いてゐる(つもりでゐる)のです。間違つても「私の思想」ではないと思ひ込んでゐる。

梶栗元会長の述懐は率直です。「神から来た思想」だと思つてゐたものが、づつと生きてきて振り返つてみると実は「私が決めた思想」だつた、といふことを認めてゐるのです。

これはしかし、かなり深刻な問題ですね。どうしてかういふことになるのか。

「私」といふのは、実に巧妙です。「神から来た思想」を装つて、巧みに「私の思想」にしてゐる。宗教者は本来この「私」をコントロールすべき者であるはずなのに、不覚にも巧妙に騙されてしまふのです。

仏教では巧妙な「私」を「小我」と言ひます。我々はこの「小我」を「本当の私」と思ひ込んでしまふ。それを「無明」と呼んでもいいのでせうか。お釈迦様も「無明を完全になくすことは私にもできない」と仰つたのです。お釈迦様も梶栗元会長も、率直なところがさすがに偉いなと思ふ。

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