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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「神は善である」といふ思ひ込み

2020/11/15
信仰講座 0
神は善である 

前の記事で、
我々の中にはなぜ『悪』の概念があるのか
といふのが「人義論」の基本的設問であると考へました。

そして
神が全能で善であると思ひ込んでゐる
とも書きました。

あれこれ考へてみると、「神が善である」と「思ひ込んでゐる」ことがそもそも「悪」の概念の源ではないかといふ気がしてきます。

この「思ひ込み」があるがために、「神の善」であるといふ「思ひ込み」の基準に合はないものを「悪」と「思ひ込む」。そして、そこに「悪」の概念が生まれるのではないか。

こんな理屈つぽい言ひ回しは本意ではないし、この理屈自体も私の「思ひ込み」かも知れないけれど。まあ、もう少し考へてみます。

「神が善である」といふのが「思ひ込み」であるといふなら、「神は悪」なのか。さうではない。神は「善」でもなく、「悪」でもない。神は善と悪を超越してゐると言つてもいいし、「善と悪」といふ概念自体が神にはないと言つてもいい。その神を「善」だといふのは、だから人間の勝手な思ひ込みに過ぎない。

この勝手な思ひ込みから、何が出てくるか。神の善に合はない(と思へる)もの、あるいは神が嫌ひ(さう)なものは「悪」に違ひないので、それをなくしてしまはなければならない。さういふ考へと、それに基づく行動が出てくるでせう。

この考へによつて最初に「悪の実体」と認定されたのが、悪魔サタンです。彼は神の創造理想に反逆したのだから、これはもう悪に違ひない。そしてその彼に同調する者、あるいは彼に唆(そそのか)されて動く者も悪になる。

それで「私は善なる神を信じる」といふ人たちの、悪(と見做されるもの)への攻撃が始まるのです。神を信じるといふ宗教に常に戦争がつきまとつてきたのも、故なきことではない。

かういふ人たちは、悪を自分の外に見ます。性向によつては、自分の中に悪を見る人もゐる。その人たちは「神の善」に合はない自分自身の要素を「悪」と感じ、自己嫌悪に陥り、罪の意識に苦しむことになるのです。

自分は常に神から「善」を基準として見つめられてゐると思ひ、大抵はその基準に到達しないので、審判を受けるに違ひないと怖れる。それで祈ると「足りない者です」「申し訳ありません」「許してください」といふ言葉ばかりが出てくることになるのです。

いづれにせよ、「神は善である」と考へるところから「悪」の概念が生まれる。そしてその概念によつて自らが苦しみ、他の誰かを苦しめる。

本当に我々は「善と悪」「正と不正」といふ考へに憑りつかれてゐます。

「私は正しい。あなたは私の考へと反対だから正しくない。私の考へに合はせるべきだ」
そのやうに考へ行動するのが正しい生き方だと思つてゐます。そしてその信念の根拠は「善なる神」なのです。

どうしたらいいのでせうか。

「神は善である」といふ考へ(思ひ込み)を捨てる。「神は善を願つてゐる」といふ考へ(思ひ込み)も捨てる。「善を願つてゐる」といふことは、「今はまだ善ではない(悪である)」と思つてゐるといふことです。

それよりも、「神はご自身に似せて創つた子どもとしての私を愛(め)で、一緒に暮らすことを願つてゐる」と考へてみる。そこには「善」とか「悪」とかいふ概念はないのです。

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