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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「神義論」より「人義論」

2020/11/14
訓読三昧 0
神義論 

キリスト教の神学に昔から「神義論」と呼ばれる、かなりややこしいテーマがあります。「神義論」といふ言葉は17世紀の数学者ライプニッツが作つたものですが、議論は5世紀のアウグスチヌス頃から始まつてゐます。

神が全能かつ善であるならば、なぜ悪が存在のするか
これが「神義論」で最初に提出される設問です。

この問ひに答える選択肢は、以下のやうにいくつも考へられてきました。

1. 神は全能でありしかも善であるが、それと悪の存在は矛盾しない。
2. 神は全能であるが、完全に善であるわけではない。
3. 神は善であるが、全能ではない。
4. 神は善ではないし、全能でもない。

かつて若い頃の一時期、神学の徒であつたとは言へ、私は(恥ずかしながら)この議論に深く入る力量もないし、その気もない。ただ、昨日の記事「彼女が本当に信じてゐたのは、神ではない」から、私の意識が自然とこのテーマに移つたのです。

このテーマに関しては、多くの神学者や哲学者が関はつて議論してきた。そして誰もが「神は…」と論じる。「神義論」といふくらゐですから当たり前と言へば、さうです。

しかし「神は…」といふ論じ方は、私には何だか的外れなやうな気がする。神の立場から「悪」を論じるのも、どこかがおかしい。この議論は「神義論」としてではなく「人義論」として論じたはうがいいのではないかと思ふ。

「神は悪に対しては全能ではないのか」
「神は善であるのか、悪もあるのか」
そんなことをいくら議論しても、何か実りがあるのだらうか。だから「神義論」ではなく「人義論」。「人は…」と論じるべきではないかと思ふのです。

神が悪に対して全能かどうかと言ふのなら、全能でないのは分かりきつた話です。もし全能なら、悪はとつくの昔に処理されて然るべきだし、そもそも悪の発生を許されるはずもない。にも拘らず悪が実在するのだとすれば、神と悪とはもともと無縁なのです。接点がないといふか、悪といふ概念自体が神の中にないのではないかと思ふ。

「人義論」といふ意味は、悪は我々人間の中にあつて、我々人間だけがそれに関はり、処理できるといふことです。悪を処理解決するのは神の責任ではなく、人間の責任だと言つていい。だから「神義論」には悪を解決する力がない。

悪が我々の中にあるといふのは、我々自身が悪の要素・性質を持つてゐるといふ意味でもあります。しかしそれ以前に、「善」に対する「悪」といふ概念が我々の中にある(神にはないのに)といふことです。

なぜ我々の中には『悪』といふ概念があるのか。そして我々はその『悪』をなくすことができるのか

これが「人義論」において最初に問はれるべき設問です。

アウグスチヌスは悪がそれ自体として存在するといふ考へを否定したのですが、ある意味で私もそれに同意します。つまり、悪といふ実体はない。個々の実体はあるのですが、それは善でも悪でもない。謂はば、ニュートラルです。

そのニュートラルなものを悪だと判断するのは、私の中にある悪の概念です。実体がその概念と一致すると思つたとき、私はそれを「悪」と呼ぶのです。

さうだとすると、私の中の悪の概念を変更するか、あるいは概念自体を消去してしまへば、私の目の前から悪と思へるものもなくなる。さうすると、私の中で「神は全能であり善であり、悪はどこにもない」といふことになり、「神義論」をあれこれ論じる必要はなくなります。

結局我々は、
「神は全能で善である」
と思ひ込んでゐる。

と同時に、
「この世に悪が存在する」
とも思ひ込んでゐる。

思ひ込みで「神義論」を戦はせてきたのではないか。

ところで、「なぜ我々の中には『悪』といふ概念があるのか」といふ「人義論」設問の前半には答へてゐませんね。これが分かれば、悪といふ概念の変更・消去の方法も分かつてきさうに思へます。

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