彼女が本当に信じてゐたのは神ではない
スペインのバレンシアで開いたセミナーに一人のアメリカ人女性が参加しました。 「私の孫がガンに罹ってしまいました」 休憩の時、彼女は私にそう言ってすがってきたのです。 「私は祈りました。この子を死なせないでって。なのに死んでしまった。どうしてなんですか?」 (『ハワイの秘法』254) |
彼女はどうして神に祈つたのでせうか。それは言ふまでもなく、彼女が神を信じてゐる(と思つてゐる)からに違ひない。
それなら、彼女はどんな神を信じてゐたのでせうか。おそらく、万能の神、慈悲の神を信じてゐたのに違ひない。だから神がたとへ万能か慈悲かいづれか一方の方であつても、自分の祈りは聞き届けられるはずだと思つてゐた。
ところが、信じてゐるつもりの神が自分の切実な祈りを聞いてくださらなかつた(やうに見える)。それで彼女は自分の信仰がおかしいのか、それとも神が万能でないのか、あるいは慈悲深くないのか、頭の中で混乱が起こり、分からなくなつたのです。
彼女の疑問に対してセミナーの講師がどう答へたか。それについては、記事「問題を抱へてゐるのはあなた自身だつた」をお読みください。ここでは、それとは少し違ふ観点で考へてみたいと思ひます。
人ごとだと思つて(本当は人ごとではないのですが)、やや厳しい言ひ方をしますと、彼女が本当に信じてゐたのは神ではない。それ以上に「自分の考へ」を信じてゐたのです。
つまり彼女の中には、祈る前にからかういふ考へがあつた。
「私の孫は、(まだ若く、これからの人生は長いのだから)今ガンで死ぬべきではない」
ところが、祈りもむなしく孫が死んでしまつたとき、
「神はどうして、正しいはずの私の考への通りに働いてくださらなかつたのか」
といふ疑問に囚はれたのです。
これは、「私が信じて(ゐると思つて)ゐる神の考へ」よりも「私が正しいと信じてゐる私の考へ」のほうが、もつと正しい、と思つてゐるといふことです。だから、「なぜ神はより正しいほうの選択をされなかつたのか」と問い質さずにはおれなかつた。
もし本当に神の全能と慈悲を信じてゐるなら、祈りによつて起こつたその「結果(孫が死んでしまつたこと)」を「最善」だと信じるはずではないでせうか。これは何と言つたらいゝのか。「信仰のパラドクス」?
しかしこゝで、かういふ疑問も残ります。
「孫が死んでしまつたのは、神が悪いのではなく、私自身が何か果たすべき責任を果たさなかつたからかも知れない」
これは実際、20年前に妻がガンで亡くなつたあと、長く私の脳裏から離れなかつた苦悩、自責の念です。
「神が正しくないはずがない。慈悲がないはずもない。助ける能力がないはずもない。とすれば、おかしいのはやはり私か?」
この苦悩の厄介なところは、考へても考へても、本当のところが分からないことです。といふか、「これが本当の理由だ」と判断できる基準を見出すことができないのです。それで、堂々巡りになつてしまふ。
堂々巡りが長く続いた挙句、最近少し整理できたやうな気がすることがあります。
容易に受け容れがたい出来事(結果)に対して、必ず何らかの理由(原因)があるのは間違ひない。しかしの理由は私には分からないし、分からなくていゝ。「私の考へは正しい」と自信を持つて言へるやうな根拠は、私には見出せないのです。
上の婦人のやうに「孫は今死ぬべきではない」といふ「自分なりの考へ」が、私にもある。その考へがどこから来てゐるかといふと、私の「自我(私といふ意識)」から来てゐるのです。
ところがその「自我」は、例へてみれば、パソコン本体の保存領域なのです。その容量はだんだん増えてゐるとは言へ、限界がある。
私の先祖たちすべての記憶や無限な神の御心といふビッグデータは容量が大き過ぎるから、すべて保存しておくことはできない。それでクラウドといふ巨大なサーバにアップしておきます。そして必要に応じて、少しづつそこからパソコンにダウンロードしてアクセスする。それが私の「自我」の立場です。
だから、今私の身の周りで起こつてゐることの本当の理由は、私の「自我」にはほとんど判読できない。できるのは、今目の前に起こつてゐる出来事が起こり得る最善だと信じることだけです。「かうであるべきだ」といふ私の考へに執着すれば、判断を間違ふ可能性が大きい。
重ねて言ひませう。最も正しさうに思へるのは、自分の考へを信じるよりも目の前で起こる出来事を信じるほうが賢明だといふことです。そのほうが間違ひなく神に近い。

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