美しい銀杏の木といふのは、ないのだな
上の写真は我が家の近くに立つ銀杏の木です。毎年この季節になると、鮮やかな黄色の葉つぱを満身につけて天に向かつて腕を伸ばしてゐるやうに見える。
この通りを何度も車で往復してゐるのに、黄色に色づいたことを今日初めて気づきました。なぜか視野に入らなかつたのです。
そして今日初めて気づいたとき、
「美しい銀杏の木といふのは、ないのだな」
と思つたのです。
銀杏の木は、づつとそこにある。季節になれば、葉つぱは色づく。しかしそれは、美しい銀杏の木ではない。
銀杏の木が美しくなるのは、私がその木に気づき、
「今年も銀杏の木は美しく色づいたな」
と感じたときなのです。
銀杏の木が私の意識とは別に実体として、その場所にづつと存在してゐることは確かです。しかしそれが「美しい銀杏」とか「立派な銀杏」とかいふ形容詞を伴つて存在するのは、私の「心の中」だけなのです。
この原理はおしなべて、あらゆるものに適用されると思ひます。
以前「さういふ人は、この世にゐない」といふ記事で、「イライラさせる人」はゐないと論じました。目の前の人は「ただの人」なのですが、私がその人を見てイライラするときに、初めてその人が「イライラさせる人」になる。つまり、「イライラする私」がゐて、その次に「イライラさせる人」が私の心の中に現れるわけです。
私は子どもの頃、「良い子」になりたいと思つてゐました。どういふ子を「良い子」だと思つたか。周囲の人に「良い子」だと思はれる子が良い子なのです。
「良い」にはそれなりの客観的な評価基準はあるでせう。親切だとか、人の悪口を言はないとか、親孝行だとか。しかしある人に親切にすれば、他の人はそれを見て「あの人にだけ親切にして不公平だ」と、私を悪く評価するかもしれない。
だから「良い」といふ属性(形容詞)は、私の中に揺るぎないものとしてあるのではない。ある人が私を見て「良い」と感じたときに、私がその人にとつて「良い人」になるのです。
さう考へると、「良い人」にならうとか「人をイライラさせない人」にならうとか、そんな努力はあまり意味がない。といふか、そもそもそんなことは無理な話だ。
それなら、私はどんな人にならうとすればいいのでせうか。私は「かうでしかあり得ない私」になるしかない。実際、私はさういふ「私」にしかなり得ないのです。
聖書の表現で言へば「生命の木になる」といふのがぴつたりとくるやうです。『原理講論』では、「男性が1人の人間として完成した姿」を「生命の木」と説明してゐます。誰でも唯一無二の「生命の木」になるしかない。それが「良い」か「悪いか」は、私を見た人が感じるだけのことです。
少しだけ具体的に考へてみませう。
前回の記事「私は自分の中に敵を作らない」で取り上げた白隠禅師のやうに、自分に降りかかる事態をそのまま受け容れる人になる。さういふ人は事態を「良い」とか「悪い」とか評価してゐない。自分自身「良い人」にならうとも思つてゐない。
さういふ人は、ある意味「私」がないのです。「私」のない人が「生命の木」に一番近いところにゐるやうに思ひます。
銀杏の木も「私」がないのでせう。そこにただ立つて葉つぱを黄色く色づかせるだけで、それを見た私の心の中に「きれいな銀杏の木」が現れ、私は「きれいだなあ」と感嘆するのです。

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