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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

私は自分の中に敵を作らない

2020/11/10
信仰で生きる 0
白隠禅師 

これまでに何度も紹介した白隠禅師の驚くべき「問題対応能力」。
(詳しくは「
不可知、無所得」参照。)

村の娘が若い男と懇意になつて、赤ん坊を生む。父は決して許してくれまいと恐れて、「実は、お寺の禅師様と…」と嘘をつく。

怒つた父親は寺に乗り込み、「お前の子なら、お前が育てろ」と、赤ん坊を禅師に突きつける。そのときの禅師の対応の一言が、「ほう、さうか」。

この一言を、私は何度も思ひ返しては考へるのです。なぜ、一瞬のうちにこんな言葉が出るのか。何度考へても、信じられない。恐ろしい言葉です。

父親の迫力に押されて認めたわけでは、もとよりないでせう。この一言を発すればどういふ結果を招くか、禅師は一瞬のうちに理解したに違ひない。

寺に赤ん坊を受け容れる。寺には女性がゐない。赤ん坊を養ふには、近隣の家を訪ねてもらひ乳をするしかない。これは現実的な困難です。

更にもう一つ、ある意味ではもつと大きな困難が生じる。赤ん坊を受け容れるといふことは、娘との関係を認めるといふことです。認めればどうなるか。

「あの禅師は、偉い方だと思つてゐたが、女好きな生臭坊主だつたか」
と、世間で噂になる。

問題は、実際に噂になるかどうかではない。「そのやうに世間から見られてゐるに違ひない」と心の中で怖れざるを得ないことが本当の問題です。

その怖れの中でもらひ乳に歩かねばならない。偉さうに説教することもできない。この噂が村を超えて広がれば、天下に聞こえた「名僧白隠」の名は地に落ちるだらう。

さういふ怖れを一瞬のうちに察知しながらも、「ほう、さうか」と対応した。

これは、我が身に起こつたことを、何も抗はずに「受け容れた」といふことです。実際このあと、禅師にどれほどの難事が続いたかと想像すると、外的には本当に大変だつたらうと思ふ。しかしその内面においては、我々がふつうに想像するより遥かに静謐で満たされてゐたのではないかとも思ふのです。

受け容れたといふことは、その問題を否定しなかつたといふことです。「それはお前の娘が嘘をついてゐる」と主張することもできたのに、さうしなかつたのは娘の嘘を肯定したのではない。

娘が若い男と密通して妊娠した。禅師様が相手だと言へば何とかしてくださると娘が浅慮し、その嘘に父親がまんまと騙されて寺に怒鳴り込んできた。その事態全体を否定せずに受け容れたのです。

何らかの問題が降りかかつてきたとき、人がそれを否定するとすれば、それはその問題が「悪いこと、間違つてゐること」と判断するからでせう。とすると、禅師が否定しなかつたのは、その事態を「善いこと」とも「悪いこと」とも判断しなかつた、少なくとも「悪いこと」と決めつけなかつたからです。そしてその態度は、正しい。

否定すると、どうなるか。禅師は敵を作ります。嘘をついた娘を敵にし、それに騙された父親を敵に回します。実際にも敵になるし、何よりも禅師の心の中において彼らを許すべからざる敵として固定してしまふことになる。

問題を本質的に考へると、かういふことです。この問題が禅師のところに持ち込まれた瞬間、それは禅師の内面における問題になつた。敵を作るか作らないか。それは偏(ひとえ)に禅師の思ひひとつにかかることになつたのです。

あの瞬間、「ほう、さうか」と答へたといふことは、
「私は自分の中に敵を作らない。その敵と戦はない」
と決断したといふことです。

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