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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

創造目的は善であるのか

2020/11/06
原理を学ぶ 0
原理講論
善と悪1 

原理講論』の創造原理に「善と悪」といふ項目があります。

善とは何か。簡単に言ふと、「神を中心として四位基台を造成して創造目的を完成すること」だとあります。

悪とは何か。善の反対に行くこと、創造目的に反することを悪と見做す。

善と悪がはつきりすれば、私は善の側、善の人間になりたい。さらに、善の側の自分に反対する人がゐれば、その人は悪に違ひないので、悪は悪とはつきり指摘しないといけないし、指摘を聞かなければ力を行使してでも矯正しなければいけない。

この善と悪は、例へてみれば一つのコインの表と裏だとも考へられます。1枚のコインの一方を表とすれば、その反対側は必ず裏になる。表だけあつて裏がないといふコインは存在しません。

裏のないコインを作らうとして極限まで薄く薄く削つていつて、裏がなくなれば、同時に表もなくなる。

そもそも初めから表がなければ、裏もない。言ひ方を換へれば、表が出てきた瞬間に裏も出現する。

つまり、「これが善だ」と言つた瞬間に、「かうでない悪」が生まれるわけです。とすれば、もし「悪」のない世界を作らうとするなら、「これが善だ」と言はないのがいいといふことになる。

でもこれは、我々の日常では難しいでせうね。

例へば、子育てするときに父母が「これは善、あれは悪」と教へなければ、どうやつてきちんと育てることができるでせうか。学校で道徳教育をするときに、「善とはこれで、悪とはこれだ」といふ基準を立てなければ、どんなふうに教育できるでせうか。
しつけ 

政治家は「自分の政策が正しい」と主張し多数決を拠り所として他党と闘ひ、より良い社会にしようとする。学者は「私の理論が正しい」ことを論証しようと実験・研究を重ねる。悪いことではなささうに思へます。

父母も先生も政治家も学者もみな、「自分が正しい」と考へるのですが、しかし彼らが本当に正しいと誰が判定できるのか。あるいはそもそも、「正しい」とはどういふことなのか。考へれば考へるほど、「正しい」といふのは曖昧な概念のやうに思へてきます。

さういふ中で、「創造目的に叶ふことが正しく、善である」といふのは、曖昧ではなさそうに見える。なぜと言つて、創造目的といふのは唯一絶対の神に由来するからです。

しかしそれなら、神自体の中に「善」と「悪」の概念があつたのでせうか。創造目的を立てるときに、それに反することがあればそれは「悪」であるといふコインの裏があつたのでせうか。

私が思ふには、神の中には「悪」はない。といふことは、「善」もないのです。何があるか。「創造目的」だけがあるのです。

神にとつて「創造目的」は「善」ではなく、「願ひ」といふものに近いのではないでせうか。神は我々人間に「善」を示したのではなく、「願ひ」をかけたとも思へます。

神に似るのが人間なら、父母が子どもに対するとき、「善」を示すのではなく、「願ひ」を伝へるべきではないかと思ふ。「この道が正しいから、それを行きなさい」といふのではなく、「このやうに行つてほしい」と願ひをかけるのです。

親子以外の分野でも基本は同じでせう。自分を「善」だと考へると、自分と考への違ふ人はすべて「悪」と見做して対するしかなくなります。

善悪で対すると「善」だけが可能な選択肢となり、その通りにならなければ「悪」だと見做して審判・対立するしかなくなる。「願ひ」は「善」のやうに強制することができないし、教へるものでもない。ただ共有するものであり、自らの生き方で示すものです。

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