全体の者になりなさい
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 (聖書『マタイ福音書』5:48) |
有名な山上の垂訓の中に出てくる、これまた有名な一句です。
エックハルト・トールが『ニュー・アース』の中でこの聖句を取り上げ、「完全といふのはギリシャ語からの誤訳だ」と指摘してゐます。何が正しい訳かと言へば、「全体」だと言ふのです。
さうすると、
「神が全体であるやうに、あなたも全体である者になりなさい」
といふことになります。
本当に誤訳なのかどうか、原典に戻つて確認してはゐませんが、私にはこのはうが少し分かりやすいなと思ひます。
そもそも「完全」とはどういふことか、ぴんとこない。神についてはそれでも何となくその完全性を認めてもいいやうな気がしますが、「完全な人間」とは一体どういふ人間でせうか。神と同等の完全性など、人間には不可能だと思はれます。
しかし「全体になれ」と言ふのなら、我々人間にも不可能ではないといふ気がする。どんな可能性があるのか、いくつか異なる面から考へてみます。
その第一。
宇宙全体、世界全体から見れば、自分一人は限りなく小さい存在だと感じられる。私は宇宙といふ全体の中の、取るに足りない一部分に過ぎない。
しかしそれは、自分を「自我(ego)」だと見做したときの感覚です。自我は自分全体のごく一部に過ぎないし、見えてゐる世界もごく一部です。
潜在意識までも含めた自分を認識できれば、その自分はより全体に近い自分になります。潜在意識には宇宙全体の記憶が含まれてゐますから、その意味で、自分は宇宙全体の大きさに匹敵します。
尤も、潜在意識はそれほど広いだけに、自我(表層意識)ではとてもコントロールできない。付き合ひ方をうまく習得する必要があります。
大抵は潜在意識の中にある過去の記憶情報が私の自我を操つてゐます。
例へば、私が難しい問題に遭遇すると、「人は信用できない。誰も私を評価しないし、感謝してくれない。闘わないと生き延びれない」といふやうな発想に囚はれる。あるいは自分と意見の違ふ相手と対すると、怒りや憎しみがしきりと湧いてくる。
自我は、さういふ思ひがどうして出てくるのか分からない。自分ではさういふ思ひは馬鹿げてゐると思ふのに、止めることができないで、それに振り回される。
かういふのはすべて潜在意識の為せる業ですが、自我は自分が思つてゐると思ひ込むのです。
このままでは過去の経験と思ひを同じやうに繰り返すだけで、変化も成長もない。似た事態に遭遇すれば、似たやうな反応 ―― 怒りや反感、絶望など ―― に終始するからです。
「あなたも全体の者になりなさい」とはまさに、過去の記憶情報を自我が自覚し、必要に応じてより善なるものに書き換へることを意味します。徐々にではあつても、さうしてこそ私は潜在意識をも含めた全体の主人になつていくことができます。

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