幸福な希望の象徴
幻想でも見せてくれます。良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲みながら、遠い山を眺める。このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。 (『天聖教』地上生活と霊界) |
おばあちゃんが入院して一時的に肩の荷がおりたので、時間を見つけて骨休め、近くの温泉に浸かりに行きました。
温泉の前にはきれいな川が流れてゐる。今日は秋晴れの良い天気で、ぽかぽかと暖かいところへ優しい風が吹いて、温泉あがりの体には快感です。
土手を降りて川をのぞくと、小さな魚があちこち泳いでゐる。水辺の草の上を舞つてゐた白い蝶は、見てゐると、そのままひらひら上昇して向かうの橋の上まで飛んでいく。
そんな秋晴れの穏やかな午後にたたずんでゐると、冒頭のみ言葉をふと思ひ出したのです。
一対の鹿が川のほとりで睦まじく水を飲み、飲み終へると首を上げて、遠くにかすむ山を眺めてゐるやうに見える。聞こえるのは、流れる水の音と、ときどき鳥の鳴き声。一幅の水墨画のやうな光景です。
これが「限りなく幸福な希望を象徴する」と言はれると、本当にそんな感じだなあと思ふ。かういふ光景を実際に見たことはない。それなのに、どうして「幸福な希望」といふ感じ方に共感するのだらう。
一対の鹿も、川を流れる水も、遠くにかすむ山も、彼ら自体は「自分は幸福だ」とは思つてゐない(でせう、多分)。この「思ってゐない」のが重要なところです。彼ら自体は何も思つてゐない。だからこそ、それを見る私の心が澄んでさへゐれば、その光景に「幸福な希望」を感じるのです。
何も思はないで、ただそこにそれ自体として存在してゐる。だからこそ、私がそれを眺めるとき、彼らの姿は私の心の映す鏡なのです。
もし私が夫婦の葛藤を抱へてゐたら、一対の鹿を見ても幸せさうには見えない。私が将来に何か不安を抱へてゐたら、山の木々も「幸福な希望」として私の目に映らないのではないか。
自然万物とは、さういふものだなと思ふ。私の心を映すものとして存在してくれてゐるのです。
じつさい今日、温泉の前の川辺にゐて見廻すと、「あの黒い魚は何だらう?」とか「今頃になつても蝶が飛んでゐるのか」などと、自分なりの思ひが次々に浮かんでくる。やたらと分析したり、評価したりするのです。
あの黒い小魚たちがすいすい泳いでをり、白い蝶がひらひら舞つてゐるのは、私の心の中の何を象徴してゐるのか。さういふことがさつぱり感じられないのです。
自然はあるがままに存在してゐるのに、それをあるがままに見るといふのは、結構難しいものだなと思ふ。相手が人なら、これがもつと難しいでせう。

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