恥辱のあまり、自ら崩れ落ちたのだ
アフガニスタンの中部山岳地帯にあるバーミヤン遺跡の仏像が、当時のタリバン政権によつて破壊されたのは2001年のことだつた。そのとき、世界中の文化人、知識人、国際組織がタリバン政権の蛮行を非難し、貴重な文化遺産を守れと声を上げたのです。
確かにその通りだ。あんな稀有な遺跡を心なくも破壊するとは、なんと野蛮な奴らか。世界はこぞつてこの貴重な文化遺産を守るべきだ。多くの人はさう思ひます。
ところがそれに対して、アフガニスタンの現状を描いた映画「カンダハール」の監督、モフセン・マフマルバフといふ人がかういふ所信を発表したのです。
「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり自ら崩れ落ちたのだ」
この仏像が破壊される随分以前から、この地域では旱魃によつて引き起こされた凄まじい飢饉のために、100万人以上の人々が犠牲になつてゐた。ところがこの監督によれば、世界の人々はこの事態に対してほとんど関心を向けなかつた。そして遺跡の仏像が劇的に破壊されて初めて、この地域に目を向けた。しかも、その地域で今現に生きて苦しんでゐる人々にではなく、石の仏像に。
だからあの仏像たちは、イスラム原理主義者たちの手で破壊されたやうに見えるが、実はさうではない。何が真実であるのか、我々人間がどこを見なければいけないのか、それを知らせるために、最後の手段として自らの身をもつて世界に知らしめたのだ。
それなら、何が一体「恥辱」なのか。人々はなぜ、今現に生きてゐる人よりも、石で作られた死んだ仏像のはうに価値があると思ふのか。仏像が彫られた真意は、仏像自体を価値視するためではなく、その仏像が体現してゐる生身の人間の真の価値を顕はすためではないか。それを誤解させてしまつたのは、我々石仏の不徳の致すところだ。だから今身をもつて真実を知らせる。
さういふ意味だらうかと、私なりに理解します。
我々人間の目が曇つて価値を正しく判断できないとき、価値あると見做されてゐるものが自ら崩れることによつて、本当に価値あるものへ人々の目を向けさせる。さういふことはあるものかなあと思ふ。
世界の人々が「石仏を守れ」と叫んだのは、石仏にどんな価値を認めたからでせうか。ユネスコは2年後の2003年にそこを世界遺産に指定したのですが、何が貴いので遺産と認めたのでせうか。
過激な人たちの外力によつてただ破壊されるだけのものなら、それは「死んだ石仏」に過ぎない。しかし監督は、少なくともその石仏を「死んだ石仏」とは思つてゐない。それらは生きてゐて、だからこそ身を挺して真実を知らせる行動に出た。より価値のあるもののために「自ら崩れた」のは「石仏」ではなく、仏心です。

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