我が家は今夜、静か
おばあちゃんが週に2回お世話になつてゐるデイサービスから、昼前に電話が入る。風呂から上がつたあと、一時的に意識不明になつたといふのです。それだけではない。腎臓の問題だらう、尿の色もだいぶ濃いらしい。
ケアマネさんからも勧められ、私もいよいよ入院を決めました。
午後、近くの医師会病院に連れて行くと、レントゲンやら心電図やら、いろいろな検査が続く。おばあちゃん本人は、意識こそあるものの、今どこにゐるのやらよく分からないやうなふうです。
だいぶ待たされて、診察室に呼ばれて入る。若い男の先生がパソコンに撮つたばかりの脳やお腹の断面図を映して見せてくれる。最近の様子について、細かな質問がだいぶ続く。
さて、その上で、どうするか。これから治療するにしても、どの方向に向けて治療するか。医者が全部を決めるわけにはいかないから、いろんな可能性について説明がある。本人の意思も重要だが、今の状態ではしつかり答へてくれさうにはない。
「私の気持ちを、正直に言ひますとね…」
あんまり細かな話をすると藪の中に入りさうなので、率直に言つてみる。
「延命処置は一切してほしくない。枯れ木がだんだん枯れていつて、そのまま息が止まるやうになるのがいいと思つてゐます。急に心臓が止まるやうなことがあつても、人工蘇生は要りません」
そんなふうに言ひながら、自分で自分の死生観を改めて確認するやうな気がしました。
齢90。本人もさうだし、私にしても、これ以上を何としても望むといふ歳ではない。そして、高齢といふ以外に特に持病もない。こんな状況なら、死ぬのは寿命しかないと思つてゐます。
寿命で死ぬのなら、やはり枯れ木が倒れるやうに死ぬのが一番いい。体中が故障した状態なら、それは自然のままに手放したはうが、本人にとつても楽だらうと思ふ。
体はなくなつても、霊人体は絶対に実存する。これは見たことはないけれども、あるはずだと、これは確信がある。
体はこの世にある。しかしこの体をはじめ、あらゆる物質的な環境を見てゐる私の意識は、この世にはない。意識はこの世の外からこの世を見てゐる。さうでないと(意識もこの世にあるのでは)意識はこの世を観察などできない。だから、体はこの世にあり、意識の土台となる霊人体はもともとこの世にはない。体の消失と一緒になくなるといふこともあり得ない。さう思ひます。
おばあちゃん、病院でどんなふうに眠つてゐるかな? 我が家は久しぶりに静かな夜です。

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