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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

近代自我の病

2020/10/27
読書日記 1
近代自我の病 

日常の意識を自立させ洗練させて西洋の近代の自我が形成され、それは自然科学という武器を手に入れたので、その強力さで全世界を席巻するかに見えました。
これに対して仏教の説く意識は西洋の自我と逆方向にその在り方を洗練させていったのではないでしょうか。そこには、能率とか操作とかの概念がまったく存在しません。何の役にも立たないと言いたくなりますが、近代自我の罹っている病を癒す力をそれは持っているのではないかと思われます。
(『100分de名著、河合隼雄』河合俊雄)


ここで河合隼雄氏が言つてゐる「近代自我の罹っている病」とは、どんな病気でせうか。

近代自我は、自分を表層意識としての「私」と思つたのです。「私」は独立自存の存在である。「私」の周囲環境を認識し、管理コントロールできる主体である。さう考へた。その「私」にとつて自然科学は最高に使へる武器でした。

朝起きて歯を磨き、顔を洗ふ。今日の予定を確認して、誰とどんな打ち合わせをするかシミュレーションをする。短期中期長期の目標を立てて、ロードマップを作成し、今自分がどこまでたどり着いたか、いつもチェックする。自分の考へが正しいことを確認し、それと違ふ考への人がゐれば、正してあげようとする。

さういふ私の日常を私が設計し、コントロールしようとし、またしてゐると思つてゐる。それが近代自我の「私」です。

ところが、これは「私」にとつて非常に大きな重荷なので、疲れて疲れて、病気になる。

実のところ、自我の「私」がやつてゐること、できることは、相当限られるのです。顔を洗ふにしても、実際に手を動かしてゐるのは自我ではない。筋肉をどんなふうに動かせば顔を洗へるかなど、いちいち考へてゐない。考へてゐないのに、無意識的にできてゐるのです。

誰と何を話すか。自分の口から次にどんな言葉が出てくるかも、自我はほとんどコントロールできてゐない。自分の考へが正しいかどうか、誰が何の基準で判断してゐるのか。それも自我は知らないのです。

できないことができると思ひ、正邪をすべて自我で決めようとしてゐるので、疲れるのは当たり前。ストレスが溜まつて病気になるのです。その病気を癒すのに、仏教的自我意識は役に立つのではないか。河合氏はさう考へてゐるやうです。

同じ「自我」といふ呼び方をしても、西洋の近代自我と仏教的自我とは真反対です。近代自我は行けば行くほど、「私」が際立つてくる。それに対して仏教的自我は行けば行くほど、「私」がなくなつていくのです。無意識に溶け込んでいくと言つたらいいでせうか。

例へば、河合氏は心理療法の体験を通して、かういふ心境に至ります。

心理療法によつて誰かを「治す」ことなどできない、と私は思っています。… 心理療法で最も大切なことは、二人の人間が共にそこに「いる」ことであります。(同上)


療法士である「私は」自分が正常であるといふ位置から、正常でない患者を「治そう」と考へる。しかし「自我」にそんな力は一体あるのか。療法士の「自我」は患者の「自我」とはまつたく別者なのに。

そこで仏教的自我は、療法士と患者の2人がそこに一緒に「ゐる」ことが最高の治癒行為だと直感する。そのとき、一方の「自我」が他方の「自我」を治癒するのではなく、2人が共通の意識圏に入つてゐる。言ひ換へれば、無意識を共有してゐるのです。その無意識といふ場を共有することで、治癒が起こる。

そのとき、どういふ仕組みで治癒が起こるのか分からない。療法士が治療する側で患者が治療される側であるのかどうかさへ分からない。双方向かも知れない。

師弟も親子も同じです。「自我」は、先生が生徒を教へ、親が子を躾けると考へます。しかしこれも実は双方向でせう。生徒の質問で先生が教へられ、子どもの純粋さで親が癒される。

「私は〇〇(師、父母、療法士など)である」といふ固定的な意識がないのが、仏教的自我と言つたらいいでせうか。

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kitasendo

kitasendo

コップに水を注いでそれを飲む。それを我々は当たり前のやうにしてゐますが、それだけの行為だつて、ロボットにやらせようとすると大変な技術の試行錯誤が必要になります。コップが割れないやうに持たせる技術、そのコップを正しく口元まで持つて行く技術、飲みやすい程度にコップを傾ける多技術。それだけでも気の遠くなるほどの試行錯誤があつたでせう。それを多分2歳くらいになれば、子どもは何気なしにやつてしまふ。

2020/11/02 (Mon) 14:03