流動的な「私」
世界のすべての言語を知つて言ふのではないが、日本語ほど「私」を意味する言葉にバラエティのある言語はないやうに思ひます。しかも面白いことに、「私」が「相手」になつたり、「相手」が「私」になつたりもする。
例へば、「おのれ」。これは元々、「己れ」であつて、自分のこと、「私」を指してゐます。ところが、時代劇などで武士が相手に激高して、「おのれ! 許さん」などと叫ぶことがある。この場合の「おのれ」は明らかに「相手」のことを指してゐる。
「手前」も同様ですね。元来は「手前ども」と言つたりして、自分のことを指してゐるのに、江戸つ子が喧嘩を吹つかけるときに、「てめえ!」と言つたりする。
あるいは、関西では相手の気持ちを聞くのに「じぶんはどう思う?」などと言ふ。あるいは、あつち系の方が堅気の人を脅すときに「このわれ!」などと大声を出したりする。これらも、本来「私」を意味する言葉を「相手」への呼びかけとして使つてゐます。
こんなふうに、日本語は「私」が「あなた」になつたり、「あなた」が「私」になつたりする。こんなおかしなことがどうして起こるのか。
日本のユング心理学研究の草分けとして有名な臨床心理学者、河合隼雄氏は、西洋の個性を「個人性(individuality)」と呼び、日本のそれを「個別性(eachness)」と呼び分けてゐます。「individual」は、これ以上分けることができないといふ意味で、一つの「実体」を表す。それに対して「each」は、個々の特徴や出来事であつて、必ずしも実体ではない。
「私」とか「あなた」などと呼んで区別するのは、「私」と「あなた」は別々の独立した実体としての「個人」であるといふ前提がある。ユングは西洋人ですから、彼の心理学も西洋的自我(ego)から出発してゐます。そこから出発して次第に自他の区別が曖昧な無意識や夢の世界に入つていつた。
河合氏も初めはさういふ「西洋的枠組み」の中でユング心理学を学んだのですが、晩年に近づくにつれて仏教的な見解に目を開かれ、ユング心理学の仏教的見方を深めていくのです。
仏教の中でも特に「華厳経」を深く研究します。
華厳経は、
「人間を含め、すべてのものに『自性(じしょう)』はない」
と説きます。
自性とは、「それ自体の定まつた本質」です。これに従つて考へれば、そもそも「私の本質」や「私の固有性」などといふものはない。「私(自我)とは何か」といふ問ひ自体が意味のないことになります。
しかし、「私」は他の人とは明らかに違ふ存在であり、個性といふべきものもあるのではないか。さういふ疑問も当然あるでせう。
それに対して華厳経は、すべてのもの・人には、他の一切のものが隠れた形で渾然と含まれており、その内のある要素が「有力」に、他の要素が「無力」になることで個性が生まれると説くのです。だから、縁によつて「有力」と「無力」の要素が切り替はれば、私の個性などいつでも変はつてしまふ。
ユング心理学を華厳経的に見れば、固定的な「私」(自我)が無個性の無意識の中に入つていくといふより、初めから「私」と「他」との明確な区分などないのです。
さう考へると、我々日本人の「私」と「あなた」の自由な入れ替はりは、極めて華厳経的、仏教的だと言へますね。西洋的な個人主義の考へからみて、自立した個人のない、極めて依存的な「自分観」だと評されがちですが、それはお門違ひ。「私」といふものの発想がそもそもまつたく違つてゐるのです。
それなら「私とは何者か」といふ問ひに対して、どう答へればいいのか。
河合氏は
「私の一生がその答への発見の過程である」
と言つてゐます。
それなら、「今の私」とは「今まで生きて発見できた限りの総体」と言つていいでせうか。固定的な「私」などない。因縁の中でつねに流動的なのが「私」だといふことになる。
そんな「私」でいいのかな。

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