愛せない敵をどう愛するか
「汝の敵を愛せ」といふイエス・キリストの教へがあります。不用意には触れたくないほど深刻な言葉です。
イエス様の場合は、まさに自分を磔に処さうとする極限的な「敵」がをり、裏切る身内がゐたので、深刻でした。しかしここで私が考へたいのは、もう少し日常の中に現れる「敵」についてです。
日常の中の「敵」。例へば、私にストレスを与へる人、私と意見を異にする人、私をイライラさせる人…。いろいろあるでせう。それらが今私の目の前にゐる「敵」だとします。
しかし、さういふ人が私以外の人にとつても同様に「敵」であるかと言へば、必ずしもさうではない。
Aさんは私と意見が合はない。言ひ方も意地悪だ。だから私はAさんと接するのが苦痛で堪らないといふとき、Aさんは私の「敵」だと言つていいでせう。
ところがAさんはBさんとは気が合ふ。和気あいあいで話す間柄であるなら、AさんはBさんの「敵」ではない。
Aさんは私にとつては「敵」であるのに、Bさんにとつては「敵」ではない。つまり、私の「敵」であるAさんは、万人にとつて絶対悪の「敵」ではないのです。
同じAさんが、Bさんにとつては友人だとすれば、そのAさんを私の「敵」にしてゐるのは誰か。私以外にはない。私がAさんを「敵」と見做してゐるからAさんは私の「敵」に見えてゐるに過ぎないといふことです。
言ひ方を換へれば、私の意識が「Aさんは私の敵である」と思つてゐるので、その通りの現実が私の目の前に出現してゐる。意識が現実を作つてゐるといふことです。
それなら、「汝の敵を愛せ」といふ教へは、私の日常生活において一体どういふ話になるでせうか。
「『自分の敵だ』といふ意識を『私の敵ではない』、できれば『私の友だ』といふ意識に変へなさい」
といふことになるでせう。
「Aさんは私の敵だ」といふ意識のままでAさんを愛することは、誰にもできない相談です。イエス様にだつてできるとは思へない。愛せない相手のことを「敵」と言ふのですから、その敵を愛せといふのは、そもそも言葉の矛盾なのです。
それなら、具体的に「私の敵」を愛するにはどうしたらいいのでせうか。
大きく2つの段階に分けます。第1段階は「その相手を受け容れる」といふことです。その上で、次の第2段階で「受け入れた相手を愛する」といふことになる。
第1段階の「相手を受け容れる」とは、その相手を少なくとも「私の敵ではない」と見做すことです。
「こんな人と会はなければよかつたのに」と思ふやうな人。その人を「この人が私の人生には必要だ。必要だから私の人生の中に登場してきたのだ」と考へる。このやうに私の意識を変換するのです。
なぜそんな人が必要なのか。本当に必要なのか。本当は必要でもないのに「必要だ」と考へるといふなら、それは強制的な思ひ込みになります。
その必要性がある程度理屈でも納得できないと、受け容れることはやはり難しいですね。その点をもう少し考へてみませう。そしてそれが分かつてくれば、そももそも、「敵を愛する」ことがなぜ私に必要なのか、それも自ずと分かつてくるでせう。

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