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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

愛せない敵をどう愛するか

2020/10/16
浄化精誠 1
愛せない敵 

「汝の敵を愛せ」といふイエス・キリストの教へがあります。不用意には触れたくないほど深刻な言葉です。

イエス様の場合は、まさに自分を磔に処さうとする極限的な「敵」がをり、裏切る身内がゐたので、深刻でした。しかしここで私が考へたいのは、もう少し日常の中に現れる「敵」についてです。

日常の中の「敵」。例へば、私にストレスを与へる人、私と意見を異にする人、私をイライラさせる人…。いろいろあるでせう。それらが今私の目の前にゐる「敵」だとします。

しかし、さういふ人が私以外の人にとつても同様に「敵」であるかと言へば、必ずしもさうではない。

Aさんは私と意見が合はない。言ひ方も意地悪だ。だから私はAさんと接するのが苦痛で堪らないといふとき、Aさんは私の「敵」だと言つていいでせう。

ところがAさんはBさんとは気が合ふ。和気あいあいで話す間柄であるなら、AさんはBさんの「敵」ではない。

Aさんは私にとつては「敵」であるのに、Bさんにとつては「敵」ではない。つまり、私の「敵」であるAさんは、万人にとつて絶対悪の「敵」ではないのです。

同じAさんが、Bさんにとつては友人だとすれば、そのAさんを私の「敵」にしてゐるのは誰か。私以外にはない。私がAさんを「敵」と見做してゐるからAさんは私の「敵」に見えてゐるに過ぎないといふことです。

言ひ方を換へれば、私の意識が「Aさんは私の敵である」と思つてゐるので、その通りの現実が私の目の前に出現してゐる。意識が現実を作つてゐるといふことです。

それなら、「汝の敵を愛せ」といふ教へは、私の日常生活において一体どういふ話になるでせうか。

「『自分の敵だ』といふ意識を『私の敵ではない』、できれば『私の友だ』といふ意識に変へなさい」
といふことになるでせう。

「Aさんは私の敵だ」といふ意識のままでAさんを愛することは、誰にもできない相談です。イエス様にだつてできるとは思へない。愛せない相手のことを「敵」と言ふのですから、その敵を愛せといふのは、そもそも言葉の矛盾なのです。

それなら、具体的に「私の敵」を愛するにはどうしたらいいのでせうか。

大きく2つの段階に分けます。第1段階は「その相手を受け容れる」といふことです。その上で、次の第2段階で「受け入れた相手を愛する」といふことになる。

第1段階の「相手を受け容れる」とは、その相手を少なくとも「私の敵ではない」と見做すことです。

「こんな人と会はなければよかつたのに」と思ふやうな人。その人を「この人が私の人生には必要だ。必要だから私の人生の中に登場してきたのだ」と考へる。このやうに私の意識を変換するのです。

なぜそんな人が必要なのか。本当に必要なのか。本当は必要でもないのに「必要だ」と考へるといふなら、それは強制的な思ひ込みになります。

その必要性がある程度理屈でも納得できないと、受け容れることはやはり難しいですね。その点をもう少し考へてみませう。そしてそれが分かつてくれば、そももそも、「敵を愛する」ことがなぜ私に必要なのか、それも自ずと分かつてくるでせう。

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Comments 1

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はちみつ

飛躍しますが、すみません

ちょっと話が逸れます。

現在ウイグルでは、中国人による弾圧(ジェノサイド)が行われています。
その内容は想像を遥かに越え、吐き気がするくらいです。
これなら北朝鮮の方がマシかも、と思うくらいです。

私はそんな中国人が憎くてたまりません。
街中で中国語を聞くと、殴りたい衝動にまで駆られます。

イエス様ならきっと中国人をも愛したことでしょう。
私は彼らが「敵でない=友達」とはとても思えないんです。
彼らが私にとって必要とも思えません、ましてやウイグル人にとっては敵以外の何者でもない。
そうとは言え、憎んでは争いは無くならないし自分も辛いです。

愛するって、すごく難しいです。
どうやって愛せばいいのか? その方法すらわからないです。
もし可能であれば、その辺を掘り下げて頂けたら嬉しいです。

2020/10/16 (Fri) 20:57