「幸福な人」の価値
Eテレの「ハートネットTV B面談義」といふ番組に出演した5人のハンディキャップたちのトークが率直で、面白かつた。障害はそれぞれ。耳の聞こえないyoutuber、全盲の弁護士、車椅子の詩人など、その人ならではの体験談が出てくる。
その中の誰だつたか忘れたが、番組の最後に少し辛い話が出てきた。
「生きることと価値といふものを同じ次元で論じたら、自分なんかに生きる価値があるのかなと悩んだ時期がある。食べて、寝る。ただ生きてゐるだけみたいで、何も生み出してゐない気もして」
それでも悩んだ末に、
「ただこの世に生きてるだけで、いいんぢやないか。何かを『為す』ではなく、『在る』にも価値があつていいんぢやないか」
と考へるやうになつた。(うろ覚えで、言ひ回しは正確ではない)
「為す」と「在る」。人の生き方として見れば、「為す」のはうに価値がありさうに思へます。しかし「在る」だつて、決して無価値だとは言へない。
自分のどこにどんな価値を自覚するか。人はその価値感なしには、どうしたつて生き甲斐を感じられないものでせう。おばあちやんの介護をしながら、私もそのことをよく考へます。
おばあちやんが周囲に何か貢献できるかと言へば、普通の見方では、何もない。体は弱つてほとんど歩けないから、車椅子が要る。目がほとんど見えないから、食事もトイレもほぼ全介護状態。貢献どころか、周囲に負担だけをかけてゐるのは間違ひない(やうに見える)。
だから本人も心苦しいのです。認知であつても、それくらゐは感じてゐます。それは私にもよく分かる。
しかし私はどうかと言へば、おばあちやんの価値を感じるのです。
自分中心かも知れないが、おばあちゃんの介護を通して私自身のことが少しづつ「見える」やうになつてきた。私からすればあまりに異常な振る舞ひをするとき、私は否応なくイライラする。しかしそのイライラがピークに達すると、ちょつと違ふ世界に入る。
なぜ今私はイライラするのか。自分のイライラを冷静に見始める。そしてイライラの原因は外(おばあちやん)にではなく、自分の中にあることが分かつてくるのです。その意味で、おばあちゃんは私の内面をそのまま映し出してくれる鏡なのです。
私がイライラを解消して接すると、おばあちゃんは必ず「感謝感謝。ありがたう。こんな幸せな年寄りはどこにもおらんね」と、同じ言葉を繰り返す。「こんなによくしてもらつても、何にも返してあげるものがないね」とも言ふが、私にとつてこれ以上価値のある見返りはないのです。
おばあちゃんは幸福なのです。私などは滅多なことで「幸せだなあ」なんて口に出せないのに、おばあちゃんは始終自然に言葉が出る。明らかに私よりも幸福なのです。
このやうな人は、そこに「在る」だけで価値がある。外的には何も「為せ」ないやうに見えても、確実な価値があります。価値ある人のそばにゐるだけで、私は幸運だなと思ふ。

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