ひとつ、吹つ切れる
私の中で、悟りといふか、ひとつ吹つ切れたものがある。それは一昨日の真夜中に訪れた。
何度か記事に書いてきたが、おばあちゃんの頻尿がその夜中、ピークに達した。深夜を挟んで数時間、3分、5分おきに目が覚めてトイレに行きたがる。
本人は生理現象としてさうならざるを得ないのだと思ふが、私としては異常としか思へない。私の焦燥とイライラもピークに達した。
おばあちゃんは大声で休みなく助けを求める。私は隣の部屋で布団に入つてゐる。温まつた布団を出るのも踏ん切りが要る。鼓膜を震はすおばあちゃんの声を聞きながら、私は自分の意識を意識層の深いはうへ沈ませていく。
その深いところで静かに考へてみると、この事態で何が問題なのか、見えてくるやうな気がする。
今このまま私がおばあちゃんを助けに行くとどうなるか。私は極度にイライラしてゐて、間違ひなくおばあちゃんの扱ひが荒くなる。自力では大変と分かつてゐても、わざと極力手を貸さず、用が済んでもほとんど声もかけず、喉を潤すジュースも飲ましてあげずに無理やり寝かせる。
「真夜中で、こつちも眠いんだ。さつさと済ませて寝てくれよ」
そんなふうに心の内で思つて、再び私も布団に入ることになる。しかしその布団に入つたときの私の気持ちはどうだらう。
眠い時に無理やり起こされたイライラは、まだ治まつてゐない。その上、自分がそれを抑えることができず老母に意地の悪い不親切をしてしまつたといふ自責の念が残る。
そんなもやもやとした気持ちのまま寝ようとしても、どうせ直ぐにまた起こされるだらう。するとイライラはさらに加算される。結局、努力の割には私も達成感がないし、助けてもらつたはずのおばあちゃんも、ちつとも嬉しくない。
そこまで考えてみて、さてそれなら、どうするか?
まづは私のイライラを鎮めることだ。
「私はおばあちやんが助けを求めて呼ぶから行くのではない。おばあちやんの生理的な願望に引きずられてただ従ふのではなく、どうしたらおばあちやんを本当に助けられるかを考へてみよう」
さう考へると、呼ばれてすぐに行かないはうがよささうだと思はれてくる。用を早く済ませて、用が済んだらすぐ寝かせるのは得策でない。それでは勢ひ寝すぎになる。寝すぎれば睡眠は浅くなり、浅くなればまたわずかな尿意ですぐに目が覚める。これでは結局、おばあちやん自身を苦しめることになる。
それなら、より良い方法はかうだ。
おばあちやんが目を覚まして助けを求めても、直ぐには助けに行かない。しばらく様子を見てゐて、もしかして自力でトイレを見つけて用を足せるか確認する。自力でできず苦しんでも、しばらくは放つておく。
それでもどうしてもダメさうに見えたら、おもむろに助けに行く。そのとき私の中にイライラはない。救世主のやうな鷹揚で余裕のある態度で介助する。用が終はればジュースを一口飲ませる。ウェットティシュで口を拭いてあげ、「これでべつぴんになつたね」と一言付け加へると、おばあちやんはにつこりする。これで穏やかに寝られる。
なぜこんなふうになるかといふと、私にイライラがないからです。イライラがなく心に余裕があると、私の態度は優しくなる。私が自分の意志で介助してあげると、介助の主体は私になる。主体は相手を喜ばせるために自主的に行動できる。
しかもかうすれば、おばあちやんはそれなりに体力を消耗するから、疲れてそのあと熟睡ができる。熟睡すれば尿意は薄らぐ。これが本当におばあちゃんを助けるといふことだらう。
相手が私をイライラさせてゐると思へば、私はその人の被害者になる。被害者が加害者の介護をするといふのは矛盾です。だからお互ひうまくいかない。
私の意識が私の見る現実を創造すると考へると、私がイライラして被害者意識になれば、そのままの現実が目の前に展開するのです。イライラがなくなり、被害者意識もなくなれば、現実はがらりと変はる。
さて、そのやうに吹つ切れてみると、夜中の3時過ぎまでおばあちゃんのトイレコールは続いたものの、私の気分はまつたく違つてきました。本当の自由を取り戻した気分です。
意識が変はると現実が変はる。今後おばあちゃんはどのやうに変はるか。観察してみませう。

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