「鉄仮面」を脱ぐ
アマゾンプライムで米国のテレビドラマ「メンタリスト」を観てゐたときのことです。
殺人事件の通報者である娼婦が召喚され、屈強な男性刑事から尋問を受け証言をしたあと、尋問室から出て行かうとする。そのとき刑事に一言話しかける。
「ねえ刑事さん、マジで背中ちやんと治したはうがいいよ。(彼は前の事件で背中を痛めてゐた)あなた、一生懸命『鉄仮面の男』を演じてるけど、赤ちやんみたいに泣いてみたくない?」
刑事は一瞬面くらつて黙つた後、
「断る」
と、一言答へる。
「あかちゃんみたいに泣いたら?」といふ娼婦の言葉には妖しい響きがあるので、刑事も咄嗟の応対に戸惑つたやうに見えます。
ところで、ここで私がマークしたのは、「鉄仮面の男」といふ一言です。
真面目で強面の振る舞ひをするクールな感じの刑事を初めて見て、娼婦は「あなたは鉄仮面の男を演じてゐる」と喝破した。もしかして他でも使ふ誘ひのテクニックだつたかも知れない。しかし刑事が一瞬面くらつたところを見ると、まんざら的を外した一矢でもなかつたやうに思へます。
その刑事は半ば無意識に「鉄仮面の刑事」を演じてゐたのかも知れない。刑事なら仕事上、鉄仮面くらゐかぶつて被疑者に当たるのがやりやすいだらう。それが別に自分を偽つてゐるとも思つてゐなかつた。
ところが、「赤ちやんみたいに泣いてみたくない?」といふ思ひがけない一言に、刑事は一瞬、自分の本心を見抜かれたやうな気がした。あるいは自分がその本心をふいに覚つた。
「自分は確かに鉄仮面をかぶつてゐるのかも知れない。しかし、四六時中そんなものをかぶつてゐたいのではない。何の飾りもなく、一度誰かに心を預けて泣いてみれば、どんなに心が解放されるだらうか」
一瞬の沈黙はもしかしてそんなことではなかつたかと、私なりに想像するのです。
「鉄仮面」に限らない。我々は誰でも何らかの仮面をかぶつて社会生活を送つてゐるのではないかと思ふのです。
仮面と言ふのは、「さうあるべき」とか「さう人から見られたい」と自分が思ふ「自分像」です。社会生活ではさういふ自分像が生きやすいとも考へてゐますが、それはどうも脆い。周囲に与へる善の影響力が弱いやうな気がします。
「かうあるべきだ」と思つて努力してゐるときは、自分の内面が満たされてゐない。「べきだ」といふ架空の自分像と現実の自分との間にギャップがあつて、そこからエネルギーが抜けていくといふ感じがします。
その自分の中の「不足感」が相手に「棘」のやうに伝はつて、傷を与へてしまふ。相手のためにといふつもりでやつてあげても、相手には喜びが感じられないのです。
それよりは、今の自分の現実を認める。受け容れる。誰かに腹を立ててゐるなら、「今私は腹が立つて仕方ない」と、心の底から素直に認める。辛いなら、「辛くて、これ以上我慢したくない」と、心の底から素直に認める。
心の底から認めると、不思議に自分の中に満ちてくるものがあります。立つてゐた腹が、鎮まつてくる。辛かつたのが、「ありのままで、できるところまでやつてみよう」といふ気持ちになる。
さうすると、イライラもせず、嫌々にもやらないので、自分から頑張り感、緊張感が取れる。すると、相手に自然体で接することができるので、相手も緊張しない。私が喜んでやつたことは、必ず相手にも喜びを生み出すのです。秘訣は、相手を尊重する前に、自分をまづ尊重することです。
「赤ちゃんみたいに泣いてみたら?」
といふのは、存外適切なアドバイスだつたといふ気がします。

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