あの学びには、まだ何かが足りない
教会を退職する3年ほど前から、私の講義は「復活論」にかなりフォーカスしました。その「復活論」の中でも、特に主要なポイントは「悪霊の再臨復活」。
「悪霊の再臨復活」とは、大体かういふ仕組みです。
人間には2種類ある。この世に生きる地上人と、あの世に逝つた霊人です。神はそのどちらも救はうとなさるが、重要な方法の一つが、ある地上人に特定の悪霊人を送ることです。
悪霊人がやつて来る(再臨)と、地上人に苦痛が生じる。病気や事故、人間関係や金銭のトラブルなど。そのときにこの地上人が苦痛を「甘受」すれば、神はそれを蕩減条件として、当の地上人のみならず、苦痛を与えた悪霊人にまでも救い(復活)の恩恵を与へる。さらには地上人の周辺(氏族)にまで恩恵が広がる。それでこれを「悪霊の再臨復活」と呼ぶのです。
ここで「甘受」とは、自分が受けた苦痛自体を当然のこととして、感謝して受け入れる、といふことです。事故に遭つてそれを甘受し、詐欺に遭つてそれを甘受する。即座に反撃しない。
そんなことは、ふつうの人情ではとてもできる話ではない。だからこそ、それをすることで神は特赦を与へることができる、といふわけです。
この仕組みは私たちの日常生活のほとんどすべての場面で適用可能だと思はれます。だから原理の中でもとりわけ重要な学びだと考へたのです。
講義ではこの仕組みをかなり詳しく分析して説明し、できるだけ身近な実例も挙げて、受講者が生活に応用できるやうに配慮したつもりでゐました。ところが今になつてみると、不十分だつたなと思ふのです。
何が不十分だつたか。
私たちが生活の中で遭遇する苦痛にはさういふ背後の仕組みと意味があつたのかと、頭では分かる。頭で分かつて信じる。信じれば、何か現実の苦痛に遭遇したときに、受け止め方が違つてくる可能性がある。
「この受け入れがたい苦痛を甘受すれば、それが蕩減条件となつて私と私の氏族の罪が一つ許され、私を苦しめた悪霊人までも恩恵を受けるはずだ。そのやうにして、神の全体的な救いの摂理が完遂に近づいていく」
さう考へて、これまでとは受け止め方を変へようと努力する。すると、何となく今までと違ふ心持ちがする。わづかなりとも、感謝できる人間に変はりつつあるやうな気がする。受講者の多くも、初めこそ新鮮な気持ちで「頑張らう」と思ふ。
ところが、その新鮮な気持ちは時間とともに薄れ、元の「苦痛は、やはり苦痛」といふ状態に戻つていくやうなのです。
講義する私自身でさへ、これが本当に蕩減条件になつてゐるのかどうか、確信が持ち切れない。疑ひやうのなほどの内的変化をなかなか実感できないのです。
あの学びでは、何かが足りない。しかもかなり決定的な何かが。
それについて、甘受の努力を続けながら、だんだんと分かつてきたことがあります。講義した内容は、頭で分かつたのです。自我(あるいは意識)で分かつたといふことです。
「なるほど、これは筋が通つてゐる。正しさうだから、信じるに足りるだらう」
と、論理的に分かり、「正しくて、良い」と思つたので、信じたのです。
ところが、心の底(潜在意識)では納得してゐない。
「苦痛を与へた相手に反撃するのが当然ぢやないか。恨みが残つて当然だし、さういふ相手を許すなんて馬鹿げてる。みんなさうしてゐるし、私もさうしなければ、私だけが損をする。被害者に留まってしまふ」
私自身、静かに心の底まで降りてみると、さういふ思ひが潜在してゐます。しかもその思ひは相当強い。自我が理屈で納得したくらゐでは、容易に太刀打ちができないほどです。
講義などで学ぶことが無駄だとは思ひません。しかし言葉でいくら鋭く指摘し批判しても、それだけでは決して十分でない。ある事を信じることと、それを心底でどう思つてゐるかといふこととの間に、相当大きな乖離があるのです。
「神の救ひは、かういふ信じ難い道を通して為される。やり返せ、恨みを持てといふのは、あなたの堕落性だ」
といくら言葉で繰り返しても、長年思ひ続けてきた心の底の思ひは簡単に変はらないのです。
この心の底の思ひを崩していく有効なプログラムが必要です。

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