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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

私の内にある無限の叡智

2020/10/03
訓読三昧 0
文鮮明
無限の叡智 

もう、私たちが誰かの言葉を聞く時は過ぎ去りました。どんな真理よりも、千万倍素晴らしい師の言葉よりも、私の心の声を聞き、聞いてもまた聞きたくて、その心を求めていくべきです。そうすれば、私も分からない無限大の何かが出てきます。それが創造の内容です。
文鮮明師)


「誰かの言葉」といふのは、私の外にあるのです。それに対して、「私の心の声」は私の内にある。どちらがより素晴らしいかと言へば、私の内にある声だといふのです。

私たちは長い生活習慣によつて、良いものの大半は私の外にあると思つてゐます。私がこの世に存在するやうになるはるか数十億年前からこの世は存在してゐる。人類の文化史だけでも数千年になり、その間に叡智が積み重ねられてきた。

その叡智は言葉の形で文字となり、書籍として膨大な量が蓄えられてゐる。その質も、その量も、到底私一人の力で及ぶものではない。

だから、私はそれを外から取り入れ、学ぶ。学ぶことによつて、私も少しづつ賢明で、良い者になつていく。「教育」といふのは、さういふ前提に立つたものでせう。

大体そんなふうに私たちは考へてゐるのですが、真実はその逆ではないか。情報の質ばかりでなく、その量においても、私の内にあるものが外にあるものをはるかに凌駕してゐるのではないか。

これまで外に向いてゐた目を、これからはもつと内に向けてみよう。さうすることで、予想もしなかつた叡智が自分の内から無限に出てきて、自分の世界を再創造できる可能性がある。

文先生の指導を、私はそのやうに理解してゐます。

しかし実際には、外から内への転換は、想像以上に難しい。良いもの、価値のあるものは外にあり、私はそれらを私の内に取り込むものだと思ひ込んでゐるからです。だから私の目は常に良いものを求めて外ばかりに向いてゐる。

外を見る目を「自我」あるいは「意識」と呼びます。自我は専ら「良い、悪い」「正しい、正しくない」といふことに関心があり、自分が「良い、正しい」と思ふものを選別し、それを取り入れようとします。それが自分にとつて益(プラス)であり、自分を守ることだと思ふからです。

ところが、その自分の「良い、悪い、正不正」の基準がどこから来てゐるのかについては、無頓着でゐます。ある事柄について、「なぜ自分はそれを良い(悪い)ことだと判断するのか」といふことを詮索しない。自明だと思つてゐるのです。

ごく身近な例で考へてみませう。

「私の配偶者(あるいは父母でも子女でも)は自分のことばかり考へて、私の事情をちつとも考慮してくれない。それは悪いことであり、間違つてゐる」
と、私の自我は当然のやうに考へてゐます。そして、悪い相手が私の願ふやうに変はるべきだといふことに、一抹の疑ひも抱かない。

それは私が相手といふ私の外を見て、その態度に焦点を当ててゐるからです。しかし、私が自分の内に目を向けたらどうでせう。

私が今、相手の態度によつて受けてゐる苦痛は、私にとつてマイナスなのだらうか、プラスだらうか。「それは当然、マイナスだ」と自我は主張します。しかし、「プラスかも知れない」と考へる私もゐるのです。

本当の私は、
「相手がさういふ態度になるのは、私がそれを私の内心で許可したからだ。さういふ事態をむしろ私自身が望んでゐた。その事態をうまく受け止めることで、私自身にプラスになることを私は知つている。私の中の闇に光が差し込むやうになる」
と、無意識的に考へてゐる。

自我は、当然納得しない。

そこで原理は
「どんな苦痛も、それを甘受すれば蕩減条件が立つ」
と、自我が納得できるやうに、論理的に説明するだけなのです。

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