ひとえに親鸞一人がためなりけり
今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の『歎異鈔』を読んだ。 「弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり」とは、何と透徹した態度だろう。もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。 日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中にひろめることを生きがいにしたであろう。遅かった。 |
ドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(1889~1976)が老後の日記に記した一節です。
西洋で哲学を深く極めようとすれば、ギリシャ語、ラテン語が必修です。だからハイデガーもそれを一生懸命に習得した。しかし現役を退く年齢になつて初めて親鸞の信心を知つて驚いた。
こんなに素晴らしい信仰の世界があることを若くして知つたなら、ギリシャ語・ラテン語ではなく日本語を学んで親鸞の信仰を世界に広めることに専心したかつた。しかし年老いた今となつては、それもできないのが口惜しい。
「弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり」
を取り敢へず現代語訳すれば、
「限りなく長い間阿弥陀様が考へぬいて立てられた本願をよくよく考へてみれば、(こんな極悪な)親鸞ただ一人を救はんがためであつた」
とでもなるでせうか。
この信仰告白のどこにどのやうにハイデガーが驚嘆したのか。日記の中に彼は詳しく書いてはゐません。それよりも私が目を留めたのは、この一節に続く内容です。
ハイデガーの教室には日本からも多くの留学生が籍を置いたことがある。その中にはそれなりの思想家、哲学者もゐた。ところが彼らの内の誰一人として、親鸞とその信仰をハイデガーに紹介してくれた者がなかつたと言ふのです。
彼らはどうしてこんなにも素晴らしい同胞がゐることも、その同胞の深い信仰をも紹介してくれなかつたのか。彼らはその素晴らしさを自覚してゐなかつたのだらうか。それとも、自分たちが今学んでゐる西洋哲学やキリスト教神学に比べれば、同胞親鸞など誇るに足りないと思つてゐたのだらうか。
そのことを、西洋人であるハイデガーが、むしろ訝つてゐるのです。
そしてその上にもう一つ、ハイデガーが不審に、あるいは残念に思つたことがある。
親鸞について語らなくても、それは良しとしよう。語らなくてもいいが、せめてその貴い教への「匂ひ」がする人間であつてほしかつた。
日本が戦争に負けて、これから世界に貢献する文化国家になると言ふなら、立派な建物も美術品も要らない。日本人一人一人がその長い歴史の中に生み出してきた貴い教への「匂ひ」がする人間になつてほしい。それが世界の文化に貢献する最高の道ではないか。
それがハイデガーの日記の結語です。含蓄のある言葉だなと思ふ。
貴い教へが、貴いのではない。親鸞に限らない。その貴い教へが「匂ひ」のある実体として実ることこそが貴いのではないか。さういふ実体が出現すれば、そのとき貴い教へは不要になる。
ハイデガーの教室に学んだ日本人たちにその「匂ひ」があつたなら、ハイデガーはそのときに「君たちのその匂ひはどこから来たのか?」ときつと尋ねたはずでせう。

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