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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「困つた事態」は誰が作つてゐるのか

2020/09/27
介護三昧 0
困った事態 

前回の記事「許容したものは私と一体となつてゐる」の続きです。

かういふ、私が許容できないものが多ければ多いほど、私は自分の基準に縛られる形で幸福を感じることができなくなります。「あの人の考へ方」「あの人のあの言葉」が私の外にあつて私と一体となつてゐないので、私はそれらの被害者であり続けるからです。


そのやうに書いたことの実際を、私の身近な体験から具体的に考へてみようと思ひます。これまでに何度か書いてきたおばあちゃんの介護に纏はる体験です。

目下のところ、私にとつて最大の問題の一つがおばあちゃんの頻尿。その頻尿たるや、平均して30分から40分に一度。時には済んだばかりで、また行きたいと言ふ。しかも本人は目がよく見えないから、私の介助が必要になる。これが昼夜なく続くので、私は出かけることもままならないし、熟睡もできない。

頻尿対策の薬を飲ませてみると、効き目があまり見えない代わりに、頭がぼうつとするのか挙動がおかしくなる。水分の摂取を抑えてみると、脱水状態に近づいたためか体調が不安定になり、血圧が下がつて頭痛や吐き気を催すことがあつて、何度か医者を呼ぶ事態になつた。

外的な対策はどれも功を奏さず、今や「トイレ!」といふ声が聞こえたら手伝ひに行くしかない。用が済んだら少量のジュースを飲ませ、ときどき昔の思ひ出話を聞いてあげる。

ところがそんな生活が1ヶ月も続くうちに、一度堪忍袋の緒が切れかけたことがあるのです。

「どうしてあまりにも頻尿なのか。できるだけ溜めて、3時間に1回くらゐ行くのが普通ぢやないか。どうしてそれができないのか」
あたかも、おばあちゃんが加害者で、私がその被害者のやうに思へてきたのです。

それで、お呼びがかかつても手伝はずにぢつと見てゐたことがある。すると方向が分からず右往左往するし、最後には半泣きになる。そこまでなれば、もう手伝つてあげるしかない。

そのときに、ふと思ひ当たつたことがあるのです。

「この問題は詰まるところ、私が30分ごとのトイレを許容できてゐないことではないか」

私だつたら3時間に1回で大丈夫だし、ふつうはさういふものだらう。30分に1回なんて、絶対におかしい。

さう思ふ私の許容範囲は、トイレの間隔は3時間なのです。だからそれ以上の頻尿はおかしいし、許せないのです。それだと、おばあちゃんの頻尿は私の外にある問題のままで、私と一体となつてゐないので、被害者意識から脱することができない。私はおばあちゃんの頻尿のせいで不幸な人間に留まるのです。

とすれば、私が被害者にならず、幸福な人になるためには、私の許容範囲を広げなければならない。30分に1回のトイレを「ふつうで当たり前のこと」に変へることです。さうすれば、この事態を私の内部(意識)の問題にすることができるので、これ以上被害者ではなくなる。

考へてみよう。そもそも3時間に1回が良くて30分に1回がいけない理由があるだらうか。これはおばあちゃんの生理的な事情なので、おばあちゃんにとつては「良いこと」でも「悪いこと」でもない。何の悪意もない。生理の自然で、当たり前のことです。

それなのに、それを私が自分にとつての負担なので、勝手に「悪いこと」と考へてゐる。とすれば、頻尿を「困つた事態」にしてゐるのはおばあちゃんではなく、私だといふことになります。

私が問題の原因です。それなら、問題解決の鍵はおばあちゃんではなく私が持つてゐる。私がその鍵をうまく使ひさへすれば、問題は解決する。さういふ理屈になります。

事態そのものは「良いこと」でも「悪いこと」でもない、謂はば「ニュートラル」なのです。それを私が勝手に「悪いこと」と思つて問題を作り出しているのだから、私の意識も「ニュートラル」に合わせることさへできれば、「困つた事態」もその瞬間に消え去るはずです。

この事態に限りません。我々はよく「あの人の考へ方」「あの人の言葉」が悪いから私が苦しんでゐると考へる。しかしそれは間違つた考へ方で、「良いこと」でも「悪いこと」でもない「あの人の考へ方や言葉」を「悪いこと」と考へてゐる私自身が苦しみの原因を作り出してゐるのです。

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