許容したものは私と一体となつてゐる
献血に協力して、400mℓの血を提供したとします。輸血を必要とする人のために貢献できたことを誇りに感じます。
一方、夏の季節に蚊が飛んできて、私の腕から2mℓの血を吸つたとします。このときは、「何だこの野郎、俺の血を勝手に吸い取りやがつて」と、怒りが生じて、即座に叩き潰す。
電車に乗つて座席に座つているとあつといふ間に眠くなつて、ウトウトと気持ちよく眠りこけることがよくあります。
一方、合宿で泊まつた部屋でいびきのうるさい人が1人ゐると、なかなか寝つけない。「どうしてこんな所で鼾(いびき)なんかかくんだ。本人はいいが、こつちは寝られない」と、腹が立つ。
同じやうに自分の血を抜かれても、献血なら誇らしく、蚊に刺されたらイライラする。同じやうにうるさい環境でも、電車の中なら熟睡できるのに、夜中の鼾はうるさくて寝られない。
かういふ違ひはどうして生じるのでせうか。一言で言つて「それを許容してゐるか、どうか」の違ひだと思はれます。
献血は自ら進んで自分の血を提供する。電車は初めからうるさいものだと知つて乗り込んでゐる。それに対して、蚊も鼾も、私はそれを許容してゐないのです。私が許容してもゐないのに、その許容範囲を越えて私に関はつてくるので、私の神経に障るのです。
許容してゐるものは、すでに私の外にはなく、私の内にあつて私と一体になつてゐます。私と一体となつたものから被害を受けることは、私にはありません。だから電車の騒音はちつとも気にならず、むしろ子守唄のやうに聞こえる。
許容してゐれば、電車の音よりもつとうるさくても大丈夫です。例へば、建設現場で働いてゐる作業員にとつて、電車より遥かにうるさい建設の音でも気にならない。その程度の音量を初めからあつて当然と思つてゐるからです。
反対に、どんな小さな音であつても、私がそれを許容してゐなければ、私のストレスになります。自分にはストレスが多いなと感じるなら、自分は何をどれくらゐ許容してゐるかと、一度自分の内面を観察してみるのがいいかも知れません。
何を許容できて何を許容できないかといふ基準は、私たちの中に無意識的に存在します。「なぜこれは許容できて、それは許容できないのか」、自分でもほとんど意識したことはないのです。
それなら意識的に自分の許容範囲を設定変更してみることはできるでせうか。例へば、蚊に対しては、1回2mℓまでならいいよ。鼾だつて、音量80dBまでならOK。といふふうに。
実際には結構難しい気がしますね。無意識の中にある基準を変更するのは、意識にはかなり手強い。
我々は誰でも例外なく幸福を求めてゐるといふのに、実際にはほとんどの人が満足できてゐない。その理由も、無意識の中にある基準のせいだといふ気がします。
「あの人のあの考へ方は、どうみてもおかしいと思ふ」
「あの人のあの時のあの言ひ方は、どうしても許せない」
かういふ、私が許容できないものが多ければ多いほど、私は自分の基準に縛られる形で幸福を感じることができなくなる。「あの人の考へ方」「あの人のあの言葉」が私の外にあつて私と一体となつてゐないので、私はそれらの被害者であり続けるからです。
実際には「あの人の考へ方」や「あの人の言葉」が加害者なのではない。それらを許容できない私の基準が私を不幸の側に留めてゐるのです。
私の外に様々な問題があつて、それを解決した分だけ私が幸福になるか。どうもさういふふうにはなつてゐない。私の幸福の鍵はもともと私の内にあるのです。私の目が外に向いてゐる限り、私はその鍵を決して発見することができない。

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