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内側からの声に耳を傾ける

kitasendo
内側からの声

「自分の考へは正しい」といふ前提で私を諭さうとしたり批判したりする人に、二通りあります。外側から言つてくる人と、内側から言つてくる人です。

外側から言つてくる人といふのは、私の親であつたり、友人であつたり、私と意見の違ふ人であつたりします。

「あなたの考へ方はおかしいから、こんなふうに変へるべきだ」
「今怠けないでしつかり勉強しておかないと、後になつて困るよ、きつと」
などと言つてくる。

その人は良かれと思つて言つてくれるのかも知れない。しかし、私には「その通りだな」と素直に思へることは稀で、たいていは自分が否定されてゐるやうに感じられる。あまり良い気持ちがしないし、反発したり、怒りが生じてきたりします。

一方、内側から言つてくる人がゐます。その人を「良心」と呼びます。良心は外側の人よりも遥かに身近で、1日24時間づつと私の隣にゐる。夜でも昼でも構はずに、私に忠告しようとします。

「あなたのやり方はおかしかつたんぢやないか。放つておくときつと後悔するよ」
などと言つてくる。

言ふことは外側の人よりももつとシャープで、ポイントを突いてゐることが多い。にも拘らず、私の反応の仕方は外側の人には過敏で、内側の人には往々にしてあまりにも鈍い。

外側の人から言はれたときには反発したり怒つたりして、言ひ争ひになつたりもします。ところが内側の人の声に対しては、多くの場合「無視」する。耳を貸さなかつたり、耳をふさいだりする。

どうして、外側と内側とでこんなに対応の仕方が違ふのでせうか。

外側の人は目に見える。その声も聞こえる。その実体が確かにあると思はれる。そのやうな人が何かを言つてくれば、反応せざるを得ません。

その人が年上であつたり上司であれば、指摘されたり批判されても反論しにくいかも知れない。しかし年下であるか同僚であれば、黙つてゐるわけにはいかない。

「そんなことはない。私には私の考へがあつて、それを変へるつもりなどない」
と、猛然と反撃する。ほぼ反射的に自分を守らうとするのです。

それに対して、内側の人は目に見えない。その声が耳から入つて聞こえるのでもない。「良心つて、一体何者なんだ」。言つてくることは正鵠を射てゐるやうにも思へるけれど、私の思ひ過ごしかも知れない。

その人の言ふことを受け容れようとすれば心が痛いし、その通りにしようとすれば苦労が多さうに思へる。それでも強制的な言ひ方を決してしないから、その言に従はなくても、物理的な力をもつて攻撃してくるやうには思へない。だから無視する。聞かなかつたことにしておかうとする。

このやうにして良心は、これまで一途な努力が報われない、可哀さうな存在だつたのです。

ところが、この良心を間違って待遇し、踏みにじり、どれほど濫用しましたか。一生の間蹂躙されながら、私を管理するのにくたびれているのが良心です。
(文鮮明総裁)


一目置くべきなのは外側の人ではなく、むしろ内側の人だと思ふのに、どうしてもこれが逆転してしまふのが我々の実情です。

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小林正観
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