人生は「思ひ通り」になつてゐる
人間は、何人(なんびと)といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。(『原理講論』総序) |
『原理講論』はこのやうな書き出しで始まる。「幸福を得ようともがいている」人間は、「今自分は幸福ではない」と思つてゐるのに違ひない。さう思つてゐるので、必死になつて幸福を得ようと努力するのです。
幸福になる条件は「欲望」が満たされることである。ところが欲望には善の欲望と悪の欲望があつて、満たすと言つても善の欲望を満たすのでなければ決して幸福にはなれないと、続けて論じてゐます。
善の欲望が満たされてゐないので、今の私は不幸である。それなら、善の欲望とはどんなものかといふことになるのですが、私にはそれが分かつてゐるのでせうか。どんな欲望が満たされれば私は幸福になれると思つてゐるのか。
私の中の欲望を少し具体的に見てみませう。
「私はもう少し社交的で積極的、愛のある人になりたい」
「私は夫婦や親子の仲をもつと率直で親密なものにしたい」
「私はもう少し(例えば年収1,500万円ほどでも)お金の余裕がほしい」
このやうな欲望が満たされれば、少なくとも今よりは幸福になれさうな気がする。ところがこの欲望を裏返してみれば、
「今の私は社交的でも積極的でもなく、愛もない」
「今の私は夫婦でも親子でも関係が疎遠で秘密もある」
「今の私は金銭的不足に苦しんでゐる」
といふ現状認識を持つてゐるといふことです。
ここで、思考の流れを整へるために「考へる」と「思ふ」を厳密に定義します。
「考へる」のは(顕在)意識の働きです。一方「思ふ」のは潜在意識の働きとします。
私の中の欲望は、「~たい」と「考へ」てゐる意識の働きです。なぜそのやうに「考へる」かといふと、「今の私はさうではない」と「思つて」ゐるからです。
「~たい」と「考へ」ながら一生懸命に努力するのですが、容易に実現しない。それが我々の悩みです。
「~たい」と「考へる」のに、なぜその願ひが容易に実現しないのでせうか。それは「考へる」力より「思ふ」力のはうが遥かに強いからです。先日の記事(「心から愛する」)でも書いた通り、「思ふ」情報量は「考へる」情報量よりも、数十万倍大きいのです。
我々は「私はダメな人間だ。家族関係もグダグダで、金儲けの才もない」と「思ひ」、信じており、その事実を受け容れてもゐます。潜在意識でさう「思つて」ゐながら、意識ではそれと反対のことを「考へ」、願つてゐる。
だから意識では「人生はなかなか思ひ通りにならないものだな」と嘆いたりするのですが、どつこい実は「私の人生は『思ひ』通りに実現されてゐる」。つまり、人生は「考へ」たやうにはなかなかならないが、「思ふ」やうには常になるのです。
自分の人生を善くしたいと「考へ」て、我々は良ささうなものをいろいろと学びます。しかし言葉によつて頭から入る教へは「善いなあ」とは思つても、自分の人生をなかなか善く変へてくれない。「考へ」はある程度変はつても、「思つて」ゐることが変はらないからです。
これまで「善い」と「考へ」たことを実践してきた。しかし「考へて実践する行動者」よりも、「思ひを変へる自己変革者」になるはうが先だと、私は「考へ」ます。

にほんブログ村

- 関連記事
-
-
実質的に堕落性を脱ぐ(その3) 2022/07/11
-
本心の根拠 2022/03/03
-
自体自覚の人と他体自覚の人 2012/04/23
-
「実体的展開」を読み解く 2017/05/15
-
スポンサーサイト