私が半分入つてゐます
私が半分入っています。二人で一つの体で、神様のもとに行くという原理です。(「聖和7号」) |
家庭連合で祝福を受けて結婚した後、夫人が先に逝かれた。その夫人から、残された夫に伝へられたメッセージの一節です。
「私が半分入っています」とは、霊体となつた夫人が夫の体の中に入つてゐるといふことです。それで例へば、2人の間でかういふやり取りがあつた。
「私(夫)が食事をするとき、美味しいもの(例へば、焼き肉とかお寿司とか)を食べるときは、あなた(夫人)も一緒に味はへますか?」
と尋ねたところ、
「もちろん、美味しく食べてゐます。あなたが自分の好きなものを食べてゐるのではなく、(実はほとんど)私が好きなものをあなたの体を通して(あなたを利用しながら)食べてゐます」
といふ思ひがけない答へが返つてきた。
「私が食べたいから、(さらに)もつと高級なものを食べさせたいといふ思ひがあります。私も嬉しいし、美味しい。ありがとう」
といふ感謝の言葉が続きます。
すでに体のない夫人が物質としての美味しい料理を食べることはできる道理がないから、夫の味覚を何らかの方法で自分の(霊的な)味覚にリンクさせてゐる。もちろん、味覚だけでなく、視覚も触覚も同様に違ひない。それが「私が半分入つてゐる」といふイメージでせうか。
創造主である神様は、東洋思想で言へば「無極(太極)」。その無極から被造物が出てくるときには、そのすべてが「二極」となつて出てきます。その典型は、人間で言へば「男」と「女」。
元は無極なのに、そこから出てきたものは二極になる。さうすると、無極とは男でもあり女でもあると同時に、単なる男でもなく女でもない。人間なら必ず男であるか女であるか、どちらかなのに、そのどちらでもない(どちらでもある)無極とは一体どういふ様相なのか。
無極とは創造主なので、そこにすべてがある。しかし二極の一方には、半分しかない。いや、多分、半分どころか、ほとんどない。
男はどんなに頑張つても、決して無極にはなれない。女もまた同様です。人間が無極になる唯一の方法は、男と女とが一つの体になることです。
「二人で一つの体で、神様のもとに行く」
とはさういふことでせう。
だから男とも女も無極になるためにお互ひに一つになりたいと願ふのですが、これがなかなか容易なことではない。
「今私が食べてゐるのは、妻が食べてゐるのである」
と言へる境地にならないと無極への道はまだ遠いですね。

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