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「有り難う」で逝く人

kitasendo
有り難うで逝く人 

マツコロイドといふ「介護されるのが専門のロボット」があります。マツコ・デラックスさんにどこか似てゐるところから、そんな名前がついてゐます。(「反転する介護体験」参照)

そもそも、介護されるロボットにどんな需要があるのか。その上、相手に決して媚を売らず、自分の言ひたいことはきつちり言ひさうなイメージのあるマツコロイド(失礼)を誰がわざわざ介護したいか。

そんな疑問は当然起きてきますが、介護現場に生じ得る心理について考へてみるのに、なかなかよい材料になります。

我がおばあちゃんは、口癖のやうに言ひます。
「役立たずの九十ばあさんの世話ばかりさせて、すまないね」

これは、マツコロイドからは出てきさうにないセリフです。今の自分は1日のほとんどを寝て過ごす身の上だから、家族に負担ばかりをかけてゐる。やるせなさを感じるものの、かと言つて、死にたくもない。

死にたくないのは、生きてゐるのが嬉しいからです。だからこんなふうに言ふこともある。

「息子がこんなに優しいから、てつこはほんとにうれしい。幸せいつぱい」

かういふ反応も、さう言ふやうにプログラムされてゐれば、マツコロイドもそのプログラム通りには言ふかも知れない。しかし生身の人間がその心の底から言ふときには、独特の響きがあります。

ときには、
「こんなに優しいから大好き。抱いてもらいたいくらゐ」
と言ふことがあるので、さすがにそれは困る。

「それは息子にはできんよ。あの世に行つてからおじいちゃんに頼んでくれ」

さう言ふと、「それもさうだね」と言つて笑ふ。

しかし、おばあちゃんも気分のいいときばかりではない。緑内障のせいでほとんど視力を失つた世界で生きてゐます。それでしばしば「暗いね。電気を点けたら?」と言ふことがあるのです。

ふだんはジュースを飲ませたり、ゼリーを食べさせたり、昔話を尋ねたりして、何となくごまかす。ところがときどき、それではすまないことがある。

落ち着かせようとしても、おばあちゃんの気持ちは高じて治まらない。

「どうして電気を点けんのかね? 暗いままぢや、何にもできない。生きてても、迷惑をかけるだけだ」
と言つて、泣き出すことがあるのです。

こんなとき、私は慰める言葉を知らない。
「大変だね。どうしたらいいものかな」
と言ひながら、肩を抱いて撫でてやるくらゐしかない。

せめて、そのうち気分が変はつて、また
「てつこはしあわせ」
と言ふ言葉が出てくるのを待つしかないなあと思ふのです。

さういふおばあちゃんから教へられたこともあります。

何か特定の信仰を強く持つとか、神様を熱心に信じるといふのも悪くはないが、それよりももつといいのは、『有り難い』といふ感謝の言葉を唱へながら息を引き取れることぢやないか。

親鸞聖人は『南無阿弥陀仏』と唱へて逝けば極楽往生できると教へられたが、それよりも『有り難う』のはうがもつといいんぢやないか。なぜなら、『南無阿弥陀仏』と言つたつて、その人が心から人生に感謝してゐるかどうかは分からない。しかし『有り難う』と言へれば、これは感謝してゐることに疑ひがない。

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