「咎める」ことの正当性
「咎める」といふ心理について、またその功罪について考へてみます。
誰かから咎められることがあります。
「どうして君は、こんなミスをしたんだ。もつと責任感をもつてやつてくれ」
そんなふうに咎められたとき、私の中でどんなことが起こるでせうか。まづ、ストレスを感じますね。そしてストレスが起こると、間違ひなく、(口に出して言はないとしても)私も相手を咎め返してゐます。
「私は精一杯やつてゐる。ミスは誰にでもある。どうしてミスだけを指摘するんだ」
咎め返さずにおれない理由は、自分の感じてゐるストレスを緩和するためです。咎め返さず、受け入れるといふ方法もあり得ます。「あなたの仰るとおりです。私の不足ですので、今後直します」と言つてもストレスは緩和されるはずですが、これは相当に難しい。
私が最初に誰かを咎める場合もあります。
「どうしてそんなやり方をするの? かうしたはうがいいのに」
このやうに私が誰かを咎めるとき、私は自分の咎めが正しいと思つてゐます。私が正しく相手が間違つてゐるから、正してあげようと思つて咎めてゐるつもりなのです。
私がこのやうに誰かを咎めるとき、私が正しいのは間違ひない。なぜなら、以前の記事(「私が現実を作つてゐる」)で書いたやうに、「私(の意識)が現実を作る」といふ観点に立てば、「相手が間違つてゐる」といふ意識が外部に投影されたのが現実であるからです。つまり私には、私が正しく相手が間違つてゐるといふ現実だけが見えてゐるのです。
ところが、ここに問題があります。私には私が正しいといふ現実が見えてゐるとき、相手には相手本人が正しいといふ現実が見えてゐるのです。つまり、私と相手の双方が、それぞれ「自分は正しい」と思つてゐる。これはつまり、人の数ほど「正しい」といふ現実があるといふことです。だから私の思ふとおりに相手が変はつてくれることなど、ほぼない。
それなら、私が自分が正しいと思ふことに従つて相手を咎めることに正当性はないのでせうか。
「咎めてあげることによつて、相手がより正しくなり、失敗しない可能性が高くなるではないか」
そんなふうにも言へさうです。そして実際、世の中にはこのやうな考へによつての咎め合ひが充満してゐます。
立憲民主党のある代議士が安倍総理の辞任に際して、
「大事な時に体を壊す癖がある危機管理能力のない人物」
と評したことが炎上し、咎めが殺到しました。
咎める人たちの動機は間違なく、「代議士を正してやるべきだ」といふものでせう。そしてその咎めが殺到したお蔭で(?)代議士は謝罪文を出したので、咎めた甲斐があつたやうにも見えます。
世の中にこのやうな咎め合ひがあるのは事実だし、それが功を奏してゐるやうに見える場合もあります。しかし、私個人としては、咎めることも咎め返すこともしたくないと思つてゐるのです。
「私(の意識)が現実を作つてゐる」のだとすれば、私の中の「相手は間違つてゐるから咎める」といふ意識が、相手が間違つてゐるといふ現実を作り出します。できる限り、私は自らさういふ現実を作り出したくはないと思ふのです。
「相手が間違つてゐるから(現実)、私はそれを咎めるのだ(意識)」と普通は考へてゐるのですが、実は「私が咎めるから(意識)、相手が間違ってゐる(現実)」と私は考へるのです。
相手が間違つてゐるといふ現実は、私のストレスになります。わざわざそんな現実を作らず、できるだけストレスフリーに生きたいのです。

にほんブログ村

- 関連記事
-
-
家庭生活という修道院 2011/05/07
-
無条件的な感謝は蕩減と無縁である 2019/02/05
-
本性で生きることにおいて、子どもと競争せよ 2013/04/01
-
「ふと」の謎 2021/08/07
-
スポンサーサイト