私が現実を作ってゐる
宇宙があり、その中に銀河系、太陽系があり、地球といふ惑星の上に国や社会があり、その環境の中に「私」が生まれ出て、生きてゐる。それが我々のふつうの世界観でせう。
私の周りにはすでに100億年以上の長い歴史があり、70億人以上の人類を擁する巨大な環境がある。そこには自然界を動かしてきた不動の法則があり、歴史的に人類が作り上げた無数の決まりや観念がある。
つまり、環境といふものが最初にあつて、その後に私が生まれ出た。さういふ観点から、この世界を捉へてゐます。何の疑ひもない、いかにも当たり前な話のやうですね。
生まれてこの方でも、「よく勉強しないと、いい学校に行けない。いい学校に行けないと、いい会社に入れない。いい会社に入って豊かに暮らせないと、幸せになれない」と、親や社会から教へられてきた。実際、学歴によつて就職にさまざまな差別がある(やうに見える)。
環境は圧倒的に大きく、私は圧倒的に小さい。私が今のやうな私になつた過半の理由は過去と環境にあつて、私自身の責任など取るに足りない。ちょつとやそつとの努力で環境を変へることなどできない。その思ひは諦めのやうでもあり、自己慰撫とも思へます。
ところが、それと正反対の考へ方もあります。
環境は幻影であり、自分がゐて、自分の内側の意識が外側に投影されてゐる。本当に存在してゐるのは「私」だ、といふ捉へ方です。
この考へ方からすると、「よく勉強しないと幸せになれないよ」と諭してくれた親は、私の外にではなく、私の内側にゐるといふことになります。親だけではない。社会も世界も、100億年も70億人も、すべては私の中にある。
さうだとすると、今私が幸せでないと感じてゐるなら、それはこの社会が「よく勉強しないと幸せになれない」といふ仕組みになつてゐたからではなく、「よく勉強しないと幸せになれない」と私が信じてゐたからです。私の意識が外側に投影されただけだといふわけです。
環境(現実)が私を作つてゐるのか、私が現実を作つてゐるのか。この2つは、見方がまつたく真逆になつてゐます。
真逆な2つの考へ方を譬へてみると、こんなふうです。
我々は普通、自分が前に進んでゐるときは周りの風景が後退する。この常識で生きてゐます。ところが、コイン洗車に入ると、車を止めてゐるのに、前に進んでゐるやうに錯覚することがある。なぜかといふと、両側の大きなブラシが後ろに移動しながら洗つてゐるからです。
このとき、自分の感覚としてはどうしても車が前に進んでゐるとしか感じられない。頭の中で「ブラシが後ろに動いてゐるだけだ」といくら言い聞かせても、なかなか感覚を転換できない。
これと同じで、「現実が私を作つてゐる」といふ常識でこれまで生きてきたために、「私が現実を作つてゐる」と聞いても、発想を容易には転換できないのです。だから9割9分は前者の発想で生きてゐる。
どちらが真実なのかといふのは、難しい問題です。ただ、私は後者の発想により大きな利点を認めます。
「私が現実を作つてゐる」と考へると、今目の前の現実がすべて私の責任になります。現実(環境や周囲の人たち)をおかしいと言つて責めることができません。そして、私が意識を変へることで現実を変へることができるといふ見通しが立ちます。
前者では、現実の中に私が含まれる。後者では、私の中に現実が内包される。
『ハワイの秘法』の著者、ジョー・ヴィターリ氏がホ・オポノポノのヒューレン博士とこんな会話を交はしたことがあります。
ヴィターリ氏が昔出した本が今になつて見ると、レベルが低かつたと感じる。かと言って、今更それらをすべて回収するわけにもいかない。どうしたらいいかとヒューレン博士に尋ねたところ、かういふ答へが返つてきた。
「それらの本は、(あなたの)外に出てゐません」
ホ・オポノポノは完全に後者の発想です。この発想をすんなり理解することは難しい。常識と真反対なので、コイン洗車の錯覚と同じ理屈なのです。

- 関連記事
-
-
刑務所の療法士 2016/11/13
-
過去の記憶に生きない人 2016/02/20
-
「意味の場」を改めて解説する 2022/05/16
-
ひたすら聞く牧会者の価値 2016/12/22
-
スポンサーサイト