独り息子の唯我独尊
「私は何者か」の足掛かりを、もう少し探してみます。
「私は父の名によつて来た。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない」(イエス様)
これはイエス様本人の言葉として聖書に記述されてゐますが、福音書の記者ヨハネは、
「神はそのひとり子を賜つたほどに、この世を愛して下さつた」
と書いてゐます。
これらを合はせてみると、神は父であり、イエス様は父の願ひを受けてこの世に生まれた独り息子である。そして、何をするにせよ「自分がやりたい」と思つてやることはない。父がやつた通りに、またやつてほしいと願ふやうにしかしない。
本当にさうなら、父と子といふ縦の軸が、あまりにも不動です。父としての神の霊が、自分の中に核として厳存する。人類の数は数へきれないのに、父の愛は独り息子としての私に100%注がれてゐる。さういふ自負と確信が漲つてゐます。
「天上天下唯我独尊」(お釈迦様)
この言葉は、伝承では、お釈迦様が誕生してすぐに仰つたことになつてゐますが、その真偽よりも大切なのは「我独」の二文字です。
「我」とはお釈迦様のことではない。自分のことを自分(我)と認識できる者、つまり人間のことを言つてゐます。今生において人間に輪廻転生した者だけ(独)が、「私はどれほど尊いか」などと自問できる。
お釈迦様のこの自己認識は、考へてみると、イエス様の「神の独り息子」と、その響きは通じるところがあります。「自分といふものをよくよく味はつてみると、私といふ存在はどうしてこんなに尊いんだ!」といふ感嘆。自分で自分に驚くのです。
この、自分がそんなにも尊いといふ感覚。その感覚は一体どこから来るのでせうか。
自分といふものを物質的に見れば、さしたる価値はない。なるほど脳を見ても、他の器官を見ても、よほど精密にはできてゐる。しかし所詮、それらは確実に老いていき、遂には機能停止して白骨化するだけではないか。
にも拘らず、自分の中に何かとても尊いものが満ちてゐるといふ感覚がある。例へてみれば、桐で作つた小箱はそれなりに奇麗だとしても、中身が空なら奇麗といふ以上の価値はない。しかしその中に高価な宝石が入れば、桐の小箱はもはやただの箱ではなくなるのです。
自分で自分の価値を感じることはできない。自分を超えた何か尊い存在との関係で、自分の価値を感じる。さういふ自己認識が、御二人にはあるやうに思へます。

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