信教の自由を得る
前回の記事「信じる人と考へる人」の続きです。
私が何かを「信じる」といふのは、その対象のことが100%分かつてゐないといふことです。100%分かつてゐれば、それはさうだとはつきり分かつてゐるのだから、「信じる」必要はなく、「了解してゐる」と言へばいい。
「私はあなたの言つたことを信じる」と言へば、あなたの言つたことが100%その通りだとは分からないといふ意味でせう。他人の心の内は私には分からないのだから、大抵は「信じる」といふしかない。
よく考へると、日常生活の中で我々はかなりのことを信じなければ、まともに生きてはいけません。誰かからお金を受け取つたとすれば、そのお札が本物だと大抵は信じてゐる。基本的にはそれを信じなければ、この世の経済活動は成り立たないでせう。
地球は太陽の周りを正しい軌道で周回してゐるし、これからも周回し続けると信じてゐる。太陽はこの先数十億年は核融合で燃え続けるとも信じてゐる。だから毎朝太陽が東天から昇つて来るのを何とも思はずに暮らしてゐます。
もう少し高度(極端)な「信じる」もあります。宗教世界では見えない神を信じ、いまだ行つたことのないあの世を信じる。善行をすれば良く生まれ変はり、悪行を積めば哀れに生まれ変はるとも信じる。100%分からないのだから、「信じる」しかない。
「信じる」しかないとは言つても、人間ですから何の根拠もなしに信じるといふことはない。「100%分からない」と言ひながらも、それなりの論理的な筋は大抵あるのです。
この自然世界をよく見よ。ミクロの素粒子からマクロの宇宙まで、同じ原則に沿つて存在、運行してゐるではないか。
人類の歴史を見よ。人間始祖の堕落以後、人類の歴史は救済史として見事に同じパターンを繰り返して流れてきてゐるではないか。これを見てなほ、神がゐないと言へるだらうか。
このやうに考へるとき、考への基本枠(パラダイム)があります。クリスチャンはキリスト教的パラダイムの中で、仏教徒は仏教のパラダイムの中で考へる。
パラダイムの外で「信じる」といふことができないのはもとより、「考へる」ことさへパラダイムの外に出ることは難しい。それを、前回の記事で引用した通り、池田晶子さんは「信教の不自由」と言ふのです。
何かもつとパラダイムに囚はれず、自由に信じ、自由に考へることはできないものでせうか。本当の「信教の自由」は手に入らないものでせうか。
「考へる」と言つても、最初に考へてパラダイムを作つた人たちは、ただ自分の頭で考へたのではない。むしろ可能な限り自分の頭をなくす(ゼロにする)ことによつて、より深く考へようとしたのではないかと思ひます。
自分が考へたいやうに考へるのではなく、頭の中をできるだけ「空」にすることによつて、より高次な考へをその「空」の中に引き込まうとした。そのやうにして得た「考へ」を、お釈迦様もイエス様も自分の考へだとは決して思はれなかつたでせう。そこに「信教の不自由」などなかつた。
さうだとすれば、私も「信教の自由」を得ようとするなら、さういふ方々の考へ方に倣ふ必要があります。

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