「信じる人」と「考へる人」
以前から私は思っているのだが、「信教の自由」というあの言い方は、それ自体でおかしい。「信じる」というのは、自在に考える自由を放棄して、ひとつの考えに縛られることでしかないのだから、それは正確には「信教の不自由」と言うべきである。 信教に自由はない。信教とは、それ自体が不自由、不自由な精神の在り方なのだ。 (『考える日々Ⅱ』池田晶子) |
「信じる」とは私にとつてどういふことだらうと、近ごろよく考へる。
池田さんは「悩む」ことを契機にして、「信じる」と「考へる」に分岐するのだらうと言ふ。ある者は悩みを解決しようとして「不自由な信じる道」へと進み、別の者は「自由な考へる道」へと向かふといふことになります。あるいは、「信じる」でもなく「考へる」でもなく、「悩み」に封印をして、あたかも「悩み」などないかのやうに生きるといふ第3の道もあるかも知れない。
さて、ここに「考へる道」を選んだ人がゐて、徹底してその道を進んだとします。「私の悩みはどこから来るのか」「どうしたら解決できるのか」「神はゐるのか」「神と私の人生とは関係があるのか」。さういふことを徹底して考へ抜き、あるレベルの答へを得たとします。
その答へを自分の言葉で表明したところ、それに共感する人が出てくる。そして「あなたのその答へを私も信じる」と言つたとします。ところが初めの人は、かう言ふでせう。
「私をなぜ信じるか。自分の悩みなら私を信じて解決せず、自分で考へて解決しろ。さうしなければ、あなたは私の教へで自分自身を縛ることになる」。
自分で「考へる」人は、「その自分を信じる」人(信者)を必要としない。といふより、信者ができるのは「考へる」人にとつては敗北を意味する。なぜなら、信者といふのは、自分で「考へる」ことをしないままに「信じる」人だからです。
聖人と呼ばれる人たちは、自分で「考へる」人だと言へるでせう。例へば、お釈迦様は徹底して自分で考へた(修業した)。そして悟りを得て涅槃を体験したので、自分としてはもうそれでよかつた。すでに悩みを解決してゐます。
ところが、そのやうな貴重な悟りを自分だけにとどめず、広く人々にも教へてくださいと請はれて教へるやうになる。そのとき、お釈迦様の真意は「私の悟りを聞いて、それを信じなさい」といふことではなかつたでせう。
「私がやつたと同じやうに修業すれば(考へれば)、あなたもまた同じやうに悟り(答へ)を得られるはずだ」
このやうな教へをそのまま実践すれば、その実践した人はお釈迦様の信者になるのではなく、もう一人の新しい覚者になるはずでせう。
「信じる」といふのは、一見良さそうに見えながら、「自分で考へない人」を作り得る、ちょつと危うい道ではないかとも思へるのです。


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