できない自分
『認知症をつくっているのは誰なのか
ある日、認知症のおじいさんの家を訪ねたとき、玄関を入らうとしたところ、水浸しになつてゐる。息子さんが出てきて、
「ああ、村瀬さん、気をつけてね。水、ちょつとまいたから」
と言ふ。
「何か、あつたんですか」
と訊くと、
「いや、お父さんがここにウンコしちゃつたから」
といふ答へ。
かういふ家族は介護が長続きすると、村瀬さんは言ふ。
反対に、訪ねた途端、
「ちょつと聞いてください。ここでウンコされたんです」
と言ひ出す家庭では、介護に行き詰る可能性が高い。
高齢になつた父が認知症で、場所をわきまえずに漏らしてしまつたといふ事実はどちらも同じ。しかしその捉へ方が違つてゐるのです。
前者は「父は父」と考へてゐる。若くてしつかりしてゐたときもお父さん、認知症になつた今も変わらずお父さん。ただ、その父が訪問客に迷惑をかけるから、靴が濡れないやうにと気遣つてゐるのです。
それに対して後者は、「認知症の父」と考へてゐる。「認知症」といふ病気のフィルターを通してお父さんを見てゐるのです。今の父は、もはや「平常な父」ではない。
これを読んで、私はどつちだらうと考へる。
先日我が家でも、玄関ではなく、寝室の畳の上にウンコを母が漏らしたことがあります。かなりの量で、気がついたときには部屋中に臭ひが充満してゐる。全部拭き取るのに1時間くらゐかかりました。
拭き取りながら、
「今後も、かういふことはまたあり得るな。どう対策するか」
と、いろいろ考へを巡らせました。
数日後、知り合いが来たとき、ウンコの話をした。
「認知症だから、まあ、いろんなことがあるよね」
といふやうな話になる。
「認知症の母」といふフィルターは、私の中にもあると思ふ。しかし「母は母」とも思つてゐるやうな気がします。
同書を読むと、脳の病気による認知症は全体のせいぜい1~2割ではないかといふ。ほとんどは老化による自然的な機能低下と言つていい。
昔なら「ぼけ」と言つて対応してゐた。2004年に厚労省がキャンペーンを張つて、かういふ現象を一括りに「認知症」といふ病気にしてしまつた。
人の一生を大雑把に見れば、「できない自分」として生まれる。成長するにつれて、だんだんと「できる自分」になり、ピークを越えるとまた「できない自分」に戻つていき、遂に死を迎へる。これは生き物の人間として、実に自然な成り行きです。
人生の終盤、「できない自分」に戻っていく過程は、まず、歩ける距離が少しづつ短くなり、ベッドや布団で過ごす時間が長くなる。次に、食事量が減つていき、昼間でも寝てゐる時間のほうが長くなつていく。赤ん坊が大きくなるのとは、反対の道筋をたどるのです。
私の母を見てゐても、
「素直で、かわいい、子どものやうだな」
と思ふことがしばしばあります。
「できない自分」に戻つていくのが自然な成り行きなら、それはその人のその年齢での自然な姿でせう。それを「認知症」と言つてしまふと、自然な姿ではなく「病気」だといふことになる。病気なら治すやうに努力しようといふことになつて、予防だとか脳トレだとか、いろいろな格闘が始まるのです。
その人のその年齢での自然な姿を見れば、「父は父」であり、「母は母」であるに過ぎない。「できない自分」に戻つてゐるとしても、「今の母が、私の母」なのです。

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